第四話 司の友情
「司、具合でも悪い?」
「……別に。平気」
晩ご飯の席で、お母さんが司を呼んだ。本人は何でもないと言い張るけれど、ここ数日の司の様子はやっぱり変だ。気付いてから何日か経っていたけれど、日を追うごとに確信に変わっていった。
いつもならサッカーの練習が終わって帰ってくると、大きな声でお腹が空いたと騒ぐのに、ここ数日は夕飯に呼ばれるまで、部屋にいるかリビングのソファで沈んだ様子を見せている。ゲームをしていても、休みの日はお母さんに怒られるまでやっているのに、一時間もすれば止めてしまう。極めつけに、今日の夕飯は司の大好きな焼き肉だというのに、全然箸が進んでいないのだ。心配するなというほうが、無理な話である。
「何か悩んでるなら、母さんか父さん、相談に乗るからね」
「何でもないってば」
心配そうな母の言葉に何でもないと返すと、勢いよくご飯をかきこんだ。
「ごちそうさまっ」
空になったお茶碗とお箸を揃えて置くと、司は駆け足で部屋に戻っていった。残されたお父さんとお母さんと、三人で顔を見合わせる。
「反抗期かしら」
「いや……思春期じゃないか? 司だって、来年には中学だ」
「どっちにしても、元気はなさそうだけど」
反抗期や思春期なら、あまり構い過ぎてもいけないらしいけれど、家族としては気がかりだ。そのうち相談してくれるか、自然と解決すればいいのだけれど。
司がたくさん食べると思って準備していた分は、明日に回るらしい。お父さんはお弁当に入るので喜んでいた。
そういえば、ここ数日は悪霊に遭遇していないから、マガツヒは私のおやつを勝手に食べているだけなのだけど、お腹が空いたりしないのだろうか。私としては悪霊に遭遇しないほうが嬉しいが、するとマガツヒの機嫌が悪くなり、勉強中でも構わず私に八つ当たりしてくるので非常に困る。マガツヒのことだから、人がいても気にせず悪霊を探して食べるかと思ったら、意外と他人がいるところでは人魂の姿にもならない。帰り道では悪霊を探せと言われるけれど、途中まで四方谷くんと一緒に帰る日が多いので、その間のマガツヒは静かなものだ。四方谷くんと別れてから、時折ぶつくさと文句を言うくらい。
以前、私の部屋に入った司が、人魂状態のマガツヒを見た。幸いにもマガツヒが昼寝しているときだったので、司はぬいぐるみと勘違いしてくれたけれど、あれは波長が合ったから見えたのか、あるいは司に悪霊の影が迫っているからなのか。数日前、マガツヒに確認したときは我が家に悪霊の気配はないと断言していたけれど、どこまで信用していいかもわからない。藤田さんみたいな例もあることだし、家族である私が気を付けてあげなくてはならない。
「ごちそうさま。お皿、下げておくね」
「ありがと、まか」
司の分も食器を流しに下げて、自分の部屋に戻る。すると、なぜか部屋から話し声が聞こえてきた。驚くけれど、咄嗟に足音を殺し、ドアに近付いて中の声を聞く。
「…………でさ、…………なんだ」
どうやら司の声だ。詳しくは聞き取れないけれど、何か話しかけているような口振りだ。けれど私がいない部屋で、話しかける相手などいるはずもない。ぬいぐるみでも相手にしているのかと思ってドアノブに手をかけたところで、思い出す。部屋には、マガツヒがいる。
……まさか、と思う。
深呼吸をしてから、できるだけ静かにドアを開けた。
「何もないって言うし……ってうわ! おねえ!?」
「そんなに驚かないでよ。私の部屋なんだから。それよりつん、さっきから誰と喋って――」
「俺に決まっているだろう。相変わらず察しの悪い下僕だな」
司に呆れながら、部屋のドアを閉める。驚いて正座の姿勢を崩した司に問いかけると、途中で司ではない声が遮って答えた。嫌になるくらい偉そうな言い草に、心当たりはひとつしかない。というか、おおかた予想はできていた。
司の手のひらの上に、紫色のおまんじゅうのようなものが乗っている。
「何してんのマガツヒっ」
今度は、私が大きな声を出す番だった。
司もちょっと驚いていたけれど、何よりマガツヒが珍しく笑っているのがとても癪に障った。
「――――というわけで」
お互い、ここまできて隠しても仕方がないので正直に打ち明けた。私はマガツヒのことを、司は最近の悩みをマガツヒに相談していたことを。私の部屋の前を通るときに悩みを呟いたところ、開けっぱなしだったドアからマガツヒが急に話しかけてきたという。マガツヒはあんな性格なので、司はマガツヒが自称大悪霊であることも、私が契約者にされていることも知っていた。どちらかというと私のほうが初耳のことが多くて、整理するのにちょっと時間がかかった。
「同じクラブの彰が最近元気なくて。プレーも全然キレがないんだけど、何かあったのかって訊いても、何もないって言うし」
「それはいいけど、どうしてマガツヒなんかに相談したのよ」
「なんか、おねえにも言いづらかったし……マガツヒならぬいぐるみに話しかけてるみたいで、気が楽になったから」
「まかなんぞに相談するより、遥かな大先輩であるこの大悪霊に相談することを選んだ点は、非常に目が高いぞ。貴様のほうが見込みがありそうだな、司」
「人の弟に変なこと言うの、ほんとやめてよね」
深い理由はなく、単に都合のいい相談相手がマガツヒだったというわけだろうが、私としてはなんだか嫌な予感がする。はじめてマガツヒと出会った日のような、あるいは藤田さんの視線を感じたときのような。こんなはた迷惑な口悪モンスターに振り回されるのは私一人で十分だというのに。
けれど確かに、司の友人の彰くんのことは気になる。先日の天宮くんを彷彿とさせる態度だ。
「つん、監督には相談したの?」
「……してない。彰、大人と話すのあんまり好きじゃないから」
「どうして?」
「彰んちって、お母さんいないんだ。お父さんだけ。でも、お父さんもいつも仕事で忙しくて、練習終わってから帰ってもいつもひとりなんだ」
「そうなんだ……」
彰くんは、チームでも特に司と仲の良い子だ。うちへ遊びに来たこともある。家庭の事情ははじめて聞いたけれど、そうなると周りに頼りたくても頼れないのではないかと余計心配になる。きっと司も同じ気持ちなのだろう。
「ふむ……。おい、下僕一号と二号」
「私は下僕一号じゃないし、ちゃっかり司も下僕にしないで」
「では餌」
「餌にしてるのはマガツヒでしょ」
「しもべのくせに生意気な口が減らんな。それより貴様ら」
私も司も真剣に考えているのに、相変わらずのマガツヒにイライラする。司だって、マガツヒが解決策を出してくれるとは思っていなかっただろう。ただ話を聞いてくれるだけでも楽になると、天宮くんも言っていたから、そういうことなのだ。だからマガツヒは、せめて黙っていてくれたらいいのに、それすらかなわない。
「彰とやらを、詳しく調べろ」
けれど、続く言葉は予想外のものだった。司と一緒に、思わず黙り込む。
「悪霊の気配を感じるぞ。――久しぶりに、上物の予感だ」
そう言うと、マガツヒは高らかに笑って人魂の姿すらも消してしまった。マガツヒが突然消えると司は少し驚いたが、それよりも気になるのは彰くんのことだ。マガツヒが反応したということは、本当に悪霊が絡んでいる可能性がある。一刻も早く解決しなくては、天宮くんと藤田さんのときのようなことになりかねない。
ひとまず明日から、司に彰くんの様子を探ってもらうことにした。
――ところが。
翌日、サッカークラブの練習が休みだったため、司が彰くんに家で遊ばないかと誘ったが断られ、諦めきれずに家まで訪ねるも、玄関すら開けてもらえずに追い返されてしまったのだ。
「ごめん、おねえ」
「つんは悪くないよ。というか、彰くんってそんな子だったっけ?」
「全然違う! 気分が悪いからって言ってたけど、学校では普通にしてたみたいだし……」
「うーん……」
彰くんがうちに来るかもしれないと思ったので、学校から早めに帰ってきた。幸いにも、四方谷くんも今日は用があるからと先に帰っていったし。
けれど司の報告は残念な結果で、二人で頭を悩ませる。
彰くんがうちに来てくれたら、マガツヒに見てもらうこともできると思ったのに。本当に悪霊が取り憑いているのか、それとも生き霊や別のものなのか。マガツヒが見ればわかるだろうに。話も聞けないのでは、予想すら立てられない。
「なんだ。飯はまだか」
「そういう言い方やめてよね」
「事実なのだから改めようがあるまい。だいたい、俺が食わねば貴様ら人間には害をなす存在だぞ。感謝して敬ってしかるべきだろう」
「たしかにそうだけど……ん? そもそも、マガツヒがいなければ悪霊が寄ってくることもないんでしょーがっ!」
「ま、そうだが」
一瞬マガツヒの言葉に納得しかけたけれど、思いとどまる。そもそもの原因はマガツヒなのだ。彼が悪霊を欲するゆえに、悪霊を引き寄せているのだから、引き寄せた悪霊を処理するのは当然のことで、私たちが感謝したり敬ったりする必要はまったくない。危うく言葉巧みに騙されてしまうところだった。
「しかし、普段と異なる言動をとるというのは、悪霊に取り憑かれた場合の顕著な例だな。大人しいはずの人間が凶暴になったり、逆に粗暴な人間が何かに怯えるようになったり」
私の部屋で、人魂モードのマガツヒと司、三人で作戦会議だ。マガツヒが大悪霊かはともかく、悪霊に関する知識が確かなことは認めるしかないため、わずかな情報でも見逃せない。まだ確信はないけれど、悪霊説がどんどん濃厚になっていく。司は不安そうな顔でマガツヒを見つめている。
「つんがキーホルダーを持ってたら、マガツヒが小学校に行けない?」
「まったく嘆かわしい事実だが、契約者である貴様から離れると強制的に睡眠状態になる。よほど強力な悪霊にでも起こされない限り、活動はできん」
「使えないなあ……」
「貴様、いつかその態度を後悔させてやるからな」
マガツヒの言葉は聞き流して、カレンダーを見る。明日は金曜日だ。土日に入るとクラブの練習も休みになり、接触できなくなる。いつもなら友達と集まって遊ぶらしいが、先週は誘っても来なかったというから、今週も来ないだろう。手遅れになる前に、手を打ちたい。
「つん、明日って練習あるんだっけ?」
「あるよ」
「じゃあ、学校帰りに小学校のグラウンド見に行ってみようかな」
小学校は、中学からの帰り道の途中にある。司を迎えに行くとき以外、帰りに寄ったことはないけれど、母校に立ち寄るくらいなら、寄り道のうちにも入らないだろう。
かくして、金曜日の朝。一時間目の英単語小テストよりも気掛かりな思いを抱えて、小学校の前で司と別れた。放課後のことを考えていたら、なんだか緊張しどおしで上の空な一日になってしまい、奈保に何度も心配された。何でもないと答えるたびに、数日前の司みたいだなと思った。
帰り際、いつものように四方谷くんに声をかけられたけれど、小学校に用があると言って先に帰ってもらった。ちょっと心苦しいけれど、嘘ではない。ついてくると言われたらどうしようかと思っていたが、その心配はいらなかった。
中学の制服姿で敷地に入るのは気まずいけれど、一足先に授業を終えた小学校に残っている生徒は多くない。あまりジロジロ見られることはなかったし、先生方も軽く挨拶するくらいで呼び止められられなかった。弟の司がいるから不審に思われなかったようで、ひとまず安心する。クラブの練習をしているという校庭に向かうと、熱心にボールを追いかけているサッカー少年たちがいた。遠目でも司はすぐにわかった。
鞄を持ち直すと、マガツヒのキーホルダーが音を立てる。練習の邪魔はできない。目をこらして彰くんの姿を探すけれど、首を傾げる。
「彰くん、いない……?」
監督に、挨拶がてら彰くんのことを聞こうとすると、先に司が駆け寄ってきた。
「おねえ!」
一応、練習中にお邪魔する形だから、司の様子を見に来たのと、家族の伝言を伝えに来たという体だ。会話は素早くすませなくてはならない。
「彰くんは?」
「帰っちゃったんだ。学校には来てたんだけど、休み時間も教室にいなかった」
「本当に体調悪いのかな?」
「まあ、調子は悪そうだけど……」
学校に来ているのも、かろうじて、という状態らしい。このままでは学校にも来なくなりそうだと司は言った。
練習へ戻るようにうながして、監督に挨拶する。
「いつも司がお世話になってます」
「千代、久しぶりじゃな。元気しよったか?」
「はい。なんとか。……そういえば、司と仲の良い彰くんが最近練習に来てないって聞いたんですけど……」
探るように本題を切り出すと、監督は腕を組んで子供たちを見つめたまま「そうなんよなぁ」と深くため息を吐いた。
「彰もサッカーしとったほうが気が紛れるじゃろうけど……。彰んちは父子家庭じゃけん。色々大変なんよ」
「そう、なんですか……」
「大人は本当の意味で、子供らの悩みをわかってやれんけぇね。見守るしかないんじゃ」
監督の言葉は、妙にずっしりと重たく心に残る。
ゴールを決めて振り返った司にぎこちなく手を振って、小学校を後にした。
真っ直ぐ家に帰る気になれなくて、海沿いの広場でベンチに腰掛けた。山の手側を歩いているとまた悪霊に遭遇するかもしれないから、駅からすぐの人通りが多いところでぼんやりする。空気を読まないマガツヒも、今は静かだ。
彰くんは試合や練習帰り、うちに遊びにきたときにご飯を食べて帰ることが時々あった。通学路で会ったときも、「つんの姉ちゃん」と呼んでくれて、挨拶してくれる。一人っ子だから、私たち姉弟がうらやましいと言っていたけれど、私にとって彰くんは、もはや従弟みたいな存在で。彼を心配する司や監督を見ていると、ひとりじゃないんだと伝えたくなる。だけど、今の彰くんにはきっと届かない。
「はぁ……」
「どうした? 口から魂を吐き出す練習でもしているのか」
「そんなわけないでしょ! ……って、外で話しかけてくるの、やめてよね」
夕陽が反射して眩しい海を眺めながらため息を吐くと、耳の近くでマガツヒの声が聞こえてきて、普通に答えてから慌てて周囲を確認した。幸い、誰にも見られたり聞かれたりしていないようだ。ムッとしながら肩を見ると、手乗りサイズの紫色のまんじゅう姿のマガツヒがいた。相変わらず、見た目だけなら可愛くて腹が立つ。
けれど、文句を重ねる前に気が付いて首を傾げる。
「マガツヒ、どうかしたの? キーホルダーから出てくるなんて」
最近は、マガツヒ曰く「霞でも食っていたほうがマシな程度の、悪霊のなり損ないの残りかす」か、私のおやつしか食べていないせいで、いつにも増して省エネモードなのだ。司と話すときはまんじゅう姿になるけれど、司の波長と合わせて話をするためにはそうしないといけないかららしい。しかし、司の自由研究でももうちょっとマシ、みたいなまんじゅう姿でも、マガツヒ的にはそこそこエネルギーを消費するらしく、近頃はそれもあまり見ない。これまでの付き合いで、無駄なことや面倒なことを自分では一切しないとわかっている。だから、マガツヒが姿を現したということは、なにかしらの理由があるはずなのだ。
マガツヒが絡むことで良いことがあった試しがないので、警戒しながら尋ねる。マガツヒは私の肩の上で転がった。
「あれはなかなか美味そうだな」
まんじゅうから伸びる小さな手が、海のほうを指していることにかろうじて気付く。夕方には少し早い時間だから、海沿いを散歩している人たちがいる。特に不審な人は見当たらないと首を傾げたところで、塀の向こう側に見慣れた帽子を見つけた。司と色違いのキャップは、彰くんがいつもかぶっているものだ。
「あれって……まさか、彰くん!?」
塀とは言うけれど、たいした高さではないから入り込むことも容易だ。しかもその先は船がつけるようすぐ海になっているから、波が弱いとしても落ちたら危ない。
「ふむ……あれが件の獲物か」
「だから、獲物とか言わないでよ」
「ああ、そうだな。あれでは獲物というより、餌といったほうが正しいか。このまま放っておくとどこぞのちんけな悪霊に食い逃げされそうだな」
相変わらずのマガツヒをたしなめるけれど、言い直しても結局変わらない。本当に、どこまでも人間を下に見ている口の減らない悪霊だ。けれど改めて口の悪さを指摘する前に、マガツヒの言ったことが引っかかる。
「食い逃げって、どういうこと? 彰くんが悪霊に狙われるの?」
「脳みそが小さすぎる下僕にはわからなかったか。猿でもわかるように結論から言えば――このままだとあいつは死ぬぞ」
え、と声が漏れる。
死ぬ――――それは、彰くんのことなのか。
これまで悪霊や生き霊に遭遇したときのような悪寒や、嫌な感じはしていない。寒気もないし、彰くんの姿に変わったところは見受けられないのに、マガツヒはいったい何を言っているのだろう。
けれど、彰くんのところへ行こうとした足はなぜか止まってしまって、固まったように動けない。
「六分……いや、七分咲きくらいか?」
何が、と尋ねることはできなかった。恐らく、彰くんに取り憑いている悪霊のことだろうと予測できたから。
マガツヒが喋っている間に、彰くんは動き出して、塀の向こうから広場に戻ろうとしていた。彰くんが動くと、彼がいた場所に、影法師のようなものが残って跡を引く。黒いもやが残像のように残っている光景を目の前にすると、途端に寒気と耳鳴りが襲ってくる。制服の下で鳥肌が立つのがわかった。もやは、先日の藤田さんのときと違って、向こう側が見えないほど真っ黒で、見ているだけで恐ろしく感じる。
これで七分咲きならば、その先は想像するだけでも目眩がする。
悪霊のことは、まだよくわからない。けれど、黒いもやを見た全身が叫んでいる。あれは、本当にまずい。
彰くんのところに行かなくては。頭ではわかっているのに、指一本動かせない。彰くんに、黒いもやに近付こうと考えるだけで冷や汗が出る。指先が氷のように冷えていく。
「ど、どうにかならないの? そうだ、マガツヒが食べちゃえば……」
「まだ無理だな」
「なんで!? マガツヒの役立たず!」
「何!? 貴様、言うに事欠いて俺様のことを役立たずだと!?」
かろうじて口は動くので、マガツヒに提案する。わざわざ姿を見せたのだし、そもそもマガツヒは悪霊を求めている。多少の人目はあるけれど、黒いもや――悪霊は普通の人には見えていないはず。マガツヒが戒の姿になって、彰くんに憑いている悪霊を食べてしまえば良いと思ったのに、なぜか断られる。動けないまま文句を言うと、マガツヒは人の気も知らないで、肩から頭の上に飛び移った。
「いいか、愚民。あれはたしかに悪霊だ。だが七分咲きと言っただろう。まだ悪霊になりきれていない、いわば悪霊の雛だ。宿主となっている人間から栄養を受け取っている状態なのだ。すでに独立した悪霊や生き霊と違って、あれを食らえば、宿主の命は保証できんぞ」
それでも食って良いのか、とマガツヒが問う。
「だ――駄目に決まってるじゃない!」
「フンッ。だろうと思った」
「でも、それじゃあどうしようもないの?」
「貴様は話を聞いていなかったのか? この耳は飾りか?」
マガツヒが頭の上で弾む。彰くんの姿は見えないが、黒いもやがゆっくりと移動していることから、彼を追いかけているのだろう。もやが離れていくと、少しずつ寒気や鳥肌が収まってくる。
「俺は、まだ無理だ、と言ったのだ。あれならば、もう少し熟成すれば勝手に宿主を離れて自立する。無論、そのときに宿主が生きている保証もないが、生気をすべて吸い上げるほどの悪霊にでもならなければ一命は取り留める。宿主から切り離されれば悪霊を食っても影響はない。故に、もっと熟すのを待つ。そのほうが美味いしな」
悪霊に詳しいマガツヒの言うことだから、間違っていないだろう。生き霊を生み出していた藤田さんでさえ、マガツヒに生き霊を食べられたら気を失ってしまったのだ。それが悪霊で、さらに藤田さんのときよりも強大なものならば、彰くんへの反動は計り知れない。成長した悪霊は取り憑いた人から離れるというなら、そのときを待つべきだと思う。
だけど――心配する司の顔と、浮かない彰くんの顔が、脳裏に浮かぶ。
「……そんなの、待ってられない!」
「何? おい、待て! 莫迦者!」
ようやく動くようになった体で、両頬を叩いてから走り出す。
「なんとかしてっ、マガツヒ!」
「はぁあ!? 貴様ッ! しもべの分際で命令とは生意気だぞ!」
いつものように、しもべじゃない、と否定する暇はない。固まっている間は遠く感じられた距離も、実際にはたいしたことない近さで、すぐに彰くんに駆け寄ることができる。ランドセルの肩紐を握りしめて、俯いて歩く彰くんがこちらに気付く様子はない。驚かせないよう、横から近付いて声を掛ける。
「彰くん!」
「っ!?」
一瞬、驚いたように――否、怯えたように、彰くんが動きを止めた。周囲を見回した彰くんは、私を見ると顔をそらしかける。けれど結局、困ったような顔で立ち尽くしていた。
「つんの姉ちゃん……」
彰くんを追っていた黒いもやは、いつの間にか消えていた。消え去ったのならばいいけれど、先程見た光景から想像するに、彰くんの中に戻ったのだろう。まだ宿主から離れられないのだ。胸の前できゅっと手を握る。
黙って顔をそらした彰くんの隣を歩く。ついてくるなとも言われないし、走って逃げ出す様子もない。ひとまず安心して、明るく話しかける。
「今日は練習、お休み?」
「……ううん。練習はあるんじゃけど、休んだんじゃ」
「そっか。お家の用事?」
彰くんは無言で首を横に振った。司と一番仲良しなのだ。さすがに白々しかっただろうかと内心焦っていると、風もないのにマガツヒのキーホルダーが揺れて音を立てる。すぐに自分のするべきことを思い出して、彰くんの様子を観察する。俯いているし、いつものような元気もないけれど、体調が悪い風には見えない。病気にかかっているわけではなさそうだ。
「…………最近、なんにもやる気が起きんのよ」
小さな歩幅で、足を引きずるように歩みを進める彰くんは、しばらく黙っていた。何も言わずに隣を歩いていると、ぽつりと口を開いた。彰くんが離れたところにあるベンチを見ていたので、声をかけて座ることにした。
「つんも監督も、みんなも心配してくれとるん、わかっとるんよ。でも、心配してくれても助けてくれんじゃろ。父ちゃんの仕事が忙しいけん、買い物に行ったり洗濯物干したりしなきゃいかんのを手伝ってくれるわけでもない。授業参観で父ちゃんの代わりに見に来てくれるわけでもない。家庭訪問のときに一緒に家にいてくれるわけでもない。体調なんてどこも悪ないよ。そりゃ、やることいっぱいあるけん疲れとるよ。そんなの、お母さんとかお姉ちゃんがおる普通の家におったら、わかってもらえっこないんじゃ」
淡々と――淡々と語るには、あまりにも胸を打つ内容を、彰くんは話してくれた。悲しいとか辛いとか、そう感じても口にしてはいけないような気がした。私にはお父さんもお母さんも、弟の司もいる。けれど彰くんにはお父さんしかいない。みんな違う事情があると言われても、彰くんだってわかっているだろう。小学六年生なのだ。わかっているけれど感情の整理が追いつかなくて、だからこそ大好きなクラブの練習を休んで、友達と距離を置いている。かける言葉が見つからなくて、唇を小さく噛む。
「ひとりで頑張る意味が、わかんなくなったんじゃ」
ゾワリ、と急に悪寒が走る。まだ寒さには縁のない季節のはず。両腕に立つ鳥肌を感じながら彰くんを見ると、黒いもやが背中から湯気のように立ち上っていた。驚いて声も出せずに見ていると、もやはどんどん彰くんの中から溢れて、宙に消え去ることもなく、煙のように彰くんを覆っていく。もやが腕をかすめると、制服の上にもかかわらず、まるで氷水を浴びせられたように冷たく感じた。初めて悪霊に出会ったときに、よく似ている。
急いで立ち上がり、ベンチから離れる。彰くんの姿は黒いもやに隠れていて見えないけれど、急に飛び退いた私を不審がる様子もない。離れてはいけないと思うのに、足が勝手に後ずさりしてしまう。
「――――まか」
すると、耳元でやけにクリアにマガツヒの声が聞こえた。同時に、下がろうとする背中が何者かの手のひらで止められる。その手が背中に触れると、全身を襲う寒気も、自然と速くなる呼吸も、波が引くように落ち着いた。
白い装束の裾と長い髪がなびいている。
瞬きした一瞬。
「及第点をやろう。無論、かろうじて、だがな」
笑いがあとを引きながら、風に乗って飛んでいく。
駅の裏手の山から、海に向かって強い風が吹いた。
吹き下ろす風の勢いに押されて数歩後ろへ退がる。
黒い巨大なもやの塊――悪霊が揺らぐことはない。
けれど悪霊は、瞬きをひとつした途端に霧散した。
「えっ……」
またしても、何が起こったのか理解できなかった。
ただ、風が止むと周囲の喧噪が戻ってくる。車の音や街行く人の会話に、波の音や鳥の声。悪寒や焦燥感といった明らかに不自然な感覚は、もうどこにもない。
マガツヒの姿を探したが、あたりを見回しても目立つ白装束は見つからない。
「ま、マガツヒ?」
恐る恐る声に出して呼んでみると、カチャリと音が鳴る。鞄のキーホルダーだ。ひょっとして、もうキーホルダーに戻ってしまったのだろうか。悪霊を食べたところなのに人魂でいることもできないとは余程切羽詰まっているのか。
同情の余地がないはずの意地悪モンスターに同情しかけたところで、目の前のベンチでうごめく人影にようやく気が付いた。
「彰くん、大丈夫?」
「う、うぅ……。え……? つんの姉ちゃん? おれ、なんでこんなところに……?」
「えっと……」
頭を押さえながら身を起こした彰くんは、ひとまず無事のように見える。けれど状況をどう説明したものか悩み、口ごもる。もちろん、悪霊が取り憑いていたけどもう大丈夫だよ、とは言えるはずもない。
「疲れてるんじゃない? こんなところで寝たら、風邪引いちゃうよ。うちでお菓子でも食べていかない?」
断られるかもしれない。そう思いながら返事を待っていると、彰くんが表情を明るくした。
「お菓子!? 行く行く!」
無理をしている風には見えなかったので、安心して胸を撫で下ろす。
うちまで歩く道すがら、最近イライラしてしまって司や友達とうまく話せなかったことや、中学でもサッカーを続けられるか心配していることを話してくれた。直接力にはなれないけれど、勉強や息抜きくらいは付き合えるし、同じことを司にも話してあげてほしいと頼めば、彰くんは「照れくさいじゃろ」と笑った。
その後、帰宅した司はお菓子を食べている彰くんの姿を見て驚き、心配かけたと謝る彰くんに文句を言いながらも一緒にゲームをした。遅くなると危ないからと途中まで司に見送りさせたが、帰ってきた司の様子から彰くんはもう大丈夫だと確信した。
晩ご飯のあと、マガツヒに大仰に感謝する司のことを部屋から追い出し、勉強机に向かって座り、考える。久しぶりに悪霊を食べられた上に、司から感謝されたマガツヒは上機嫌だ。先程までは私にも「恐れ崇め敬うが良い!」とのたまっていたが、今は司にもらったポテチを食べて、紫色の人魂状態でぷうぷうとかわいい寝息を立てている。本当に寝息なのかとか、かわいいのかとかは深く考えないことにする。
マガツヒと初めて出会ったときの男の子は、悪霊そのもので、人に取り憑いていなかった。
藤田さんのときは、藤田さんが試したおまじないによって、彼女の嫉妬心や天宮くんへの感情が暴走して生き霊になった。
彰くんの場合は、生き霊ではなかったとマガツヒは言った。悪霊が取り憑いたのかと問うと、「半分当たりで半分外れだ」とのこと。詳しく問いただすと、おそらくは下級の悪霊――悪霊になる前の小さな悪意のようなものが彰くんに取り憑いて、彼の心の中にある鬱憤や寂しさなどマイナスの感情と結びついて肥大化したのだろうという話だった。
悪霊にも色々な種類や区別があるということは、以前のマガツヒの話でも聞いたけれど、まだよくわからない。だからマガツヒの説明は、理解できなくても納得するしかない。現状、身の回りで悪霊のことを知っていて詳しいのはマガツヒだけだからだ。
けれど、どうしても引っかかったことがある。
「まだつまらんことを気にしているのか? 気の小さい下僕だな。人間が臆病なのは仕方がないか。弱者は強者に怯えるものだからな」
「いちいち余計な言葉が多いのよ」
いつの間にか目を覚ましたマガツヒが、人魂姿のまま、てちてちと机の上を移動する。私の目の前にやってきたので、苛立つ気持ちを抑えて向き合う。私が大人にならなくては。
「だって、やっぱり納得できない。すごい悪霊が彰くんに取り憑いてたんならわかるけど、悪霊でもないような弱いやつが取り憑くなんて。そんなことできるの?」
「たしかに、下級悪霊は人に取り憑いてもすぐに落とされて憑ききれんことが多い。だが、必ずというわけではないし、運が良ければ今回のように芽を出すこともある。逆に、人に取り憑ける程度の力を持った悪霊があの餌に憑いていたら、想像以上に膨れ上がって、貴様や司では対処できなかっただろうな」
「そ、そんなに?」
「あの餓鬼、なかなか良い素質がある。貴様なんぞより余程上質な餌になったかもしれん。俺様が貴様に見つかってしまったのは悲劇だな」
「……彰くんがマガツヒの毒牙にかからなくて何よりだよ」
精一杯の言葉で言い返して、それ以降のマガツヒの悪態には適当な相槌を打つ。真面目に取り合うだけ時間の無駄だ。
素質と運だとマガツヒは言う。たしかに、その通りかもしれない。しかし、彰くんの話が忘れられなかった。
――父ちゃんが仕事で遅くなるって言われとった日、寄り道して帰ったんじゃ。今日みたいに海沿いを歩いとったら、知らない兄ちゃんに話しかけられたんよ。おれ、なんでかわからんのじゃけど、色々話して聞いてもらって、楽になって。……けど、次の日から余計に色んなことを意識してしもぅて、司にも冷たくしてしまったんじゃ。
知らない人と彰くんの態度の豹変。あまりにもタイミングが良すぎるから、何か関係があるのではないかと思うけれど、マガツヒが何も言わないということは、悪霊の気配などは感じてないということ。マガツヒも気にしすぎだと鼻で笑うだけ。
なんだかもやもやした思いを抱えながら、けれどうまく言葉にもできず、また眠ってしまったマガツヒを指先でつついた。