top of page

君の名を呼ぶ

 吐く息も白く、寒さが肌に染み入る年の暮れ。大内裏(だいだいり)では、一年の間に溜まった厄を払うため、追儺(ついな)の儀式を執り行っていた。

 ――時は清和天皇の御代(みよ)。宮中は華やぎ、歌会や管弦などの雅やかな催しが楽しまれている。一方、都の外には、きらびやかな表舞台に立つことができない貧しい人々が溢れていた。

 この世の極楽と地獄が表裏一体をなす平安京。

 誰にも訪れた今年という一年が、終わろうとしている。

 

「おにー、やらうっ」

 

 木を打ち叩く高い音の後、先人にならって数十の声が唱和する。重なる声は、わんわんと宮中に響く。

 大内裏を巡っているのは、玄衣朱裳(げんえしゅも)の袍(ほう)を着た、方相氏(ほうそうし)と呼ばれる役を負う大舎人(おおとねり)だ。金に光る四つの目が描かれた面で顔を隠し、右手に長い鉾(ほこ)、左手に飾り気のない盾を持っている。方相氏が声をあげるたびに、両手のものが打ち合わされる。それに続くのは、赤い頭巾に黒い皮衣(かわごろも)を着た役人たちだ。火のついた竹を持ち、方相氏の後ろをついて回る。彼らは儀礼に則って、鬼――厄――を追い払っている。

 

「おにー、やらうっ」

 

 大内裏に響き渡る声を聞くと、仕事をしていた女房たちも思わず手を止めた。近付いてくる声につられて、彼女たちは部屋から顔を覗かせる。あけすけに見物に出たものか迷いながら、仕える主が追儺の祭事でいないのだからと結局御簾(みす)を上げ、方相氏たちの見えるところまで出た。宮中での暮らしは、面白いことばかりだ。かといって、日々の勤めに退屈しないわけでもない。年頃の娘たちにとって年中の祭事は、楽しみの一つである。彼女たちの着物の重ねは、白や鳥の子。まだ冬の色を残していた。

 

「今年の方相氏は、一体どなたが務めていらっしゃるのかしら」

「私は源光茂(みなもとのみつしげ)様と伺ったわ」

「あら、そうなの?」

 

 着物の袖で口元を隠しながら、女房たちがひそやかに言葉を交わす。しかし方相氏ら一行は彼女たちなど見えていないようで、自らの務めを果たすばかり。追儺の方相氏は大役であるから、それも当然である。

 声をあげながら過ぎていく一行を目で追いながら、女房のうちの一人が、妙なものに気付いた。白と紅梅の重ねを着ている年若い彼女は、楽しげなお喋りにも加わらず、件の妙なものをじっと目で追い続ける。

 それは、方相氏一行よりいくらか遅れてやってくる幼子たちだった。そもそも行事を行っている大内裏に幼子がいる時点でおかしいのだが、彼らの格好はその事実よりもさらに奇妙だった。幼子たちは袖丈の短い襤褸(ぼろ)の着物から真っ赤な肌を見せ、髪の毛は無造作に伸び、額には小さな瘤のようなものが二つついていた。みな違うことなく、である。幼子たちは、覚束ない足取りで、しかし確かに、先行く方相氏を追っている。他の女房たちはお喋りに夢中になっているのか、誰一人気付くことはない。

 

「……え」

 

 そんな時に彼女が思わず言葉を漏らしたのは、さらに奇妙な男が幼子を追って現れたからだった。

 黒い衣に赤い裳は、源光茂扮する方相氏となんら変わりがない。ただ、肩にかけた青い衣が風もないのにはためき、珠玉のように輝いている金色の髪は先人とまるで異なっている。しかし何よりも驚くべきなのは、髪と同じ色の瞳を二対、額に二本の角を持っていることであった。それらは面などではなく、男の素顔なのだと分かる。その目は険しく幼子たちを追っているからだ。

 

「おにー、やらうっ」

 

 光茂が声をあげて鉾と盾を打ち合わせる度に、後から来た男は、手に持っている鉾を幼子たちに向けて振りかざす。すると、幼子たちは逃げ惑うように四散する。男が鉾を振り回すと、腰まで垂れる長い金の髪が揺れた。研ぎ澄まされた鉾のように怜悧な顔をしている男は、口も開かずに光茂ら一行の後を追う。

 

「そういえば、光茂様の御子息が縁談をお探しでいらっしゃるという話は、もう聞いた?」

「ええっ! 聞いてないわ! 光行(みつゆき)様よね?」

「そうよ。何でも光茂様は、楽(がく)がお好きだから――」

 

 光茂一行が通り過ぎてしまって興味がなくなったのか、女房たちは話しながら部屋に戻っていく。けれどもそのまま立ち尽くしている女房は、奇妙な男をじっと見つめたまま取り残されていた。なぜだか、目を離せない。

 

「!」

 

 ふと、男が女房のほうを振り返った。それは幼子を鉾で追う動きの一部にすぎなかったが、確かに二人は視線を交えた。ほんの数瞬。けれど彼女には、それがとても長い時間のように感じられた。男が二対の金目を細める。

 

「――見えるか」

 

 女房が男の呟きに目を開いた時、男は既に視線を外し、先を行く幼子たちを追いかけて行ってしまっていた。残された女房は、彼らが去って行った方を見つめて佇む。男の言葉が意味するところがわからなかった。

 

「清子(せいし)、中に入らないの?」

「あっ……いいえ、入るわ。珍しいから、ちょっと見ていたの」

 

 女房――清子は名を呼ばれて振り返る。主を同じくする女房の一人が、清子と彼女が見送っていたほうを怪訝に見やる。清子の言葉を追求することもなく、彼女は「ふうん」と言って下ろした御簾の奥に引っ込んだ。

 清子はそれでも名残惜しそうに外を見ていたが、やがて中に入った。

 遠くからは、掛け声と木を打つ音が聞こえていた。

 

 

 

 

 

 目を開けると、天井が見えた。ごろりと体の向きを変えると、薄暗い明障子の向こう側に月の光が落ちているさまが視界に映る。清子(せいし)はゆっくりと身を起こし、布団を出て障子を開けた。雲のない星空が広がっていて存外明るいが、空気は肌を刺すように冷たい。自分の体を掻き抱いて、清子はその場に腰を下ろして庭を眺めた。

 着物の袖から覗く指先に息を吹きかけて温める。布団に戻ればいいのだが、清子はなぜかそんな気分になれなかった。

 虫の声も聞こえない。風の音だけが耳に届く、静かな夜の景趣を清子は楽しんでいた。普段は起きていることのない時間だけに、物珍しい感じがする。こんな寂しい夜に通ってくる男の一人でもあれば、と考えかけたところで頭を大きく振った。

 

「……いいのよ、結婚なんて、まだしたくないもの」

 

 父親と二人暮らし、行事の時だけ宮中に召し出だされる清子は決して身分が低いわけではないが、筝(そう)を弾く他に長所もなく、年頃ではあるが特にこれといった縁談は来ていなかった。探せば見つかるだろうけれど、清子は父に頼む気にはなれなかった。気をもむ父を安心させるためには、早く夫を見つけるべきだとわかっている。わかっているからこそ、ため息が零れた。

 

「……どうでもいいが、寝ないのか」

「誰!?」

 

 寂しさを紛らわせるために呟いた彼女の言葉は、しかし何者かの返答を得た。あるはずのない答えに驚いた清子は立ち上がり、辺りを見回した。胸の前でぎゅっと両手を握る。庭には、春を待つ木が立ち並んでいる。梅の木の側にぼんやりとした人影を見付けて、清子は一歩下がった。

 

「貴方は……」

「汝(なれ)に手を出すつもりはない。安心しろ、人よ」

 

 清子の呼びかけで、木に預けていた背をしゃんと伸ばした人影は、暗闇の中でもよく見えた。それは、月明かりに輝く金色の髪のおかげだろう。

 黒い衣に赤い裳、青い羽織姿の男は、清子が昼に宮中で目にした奇妙な男だった。あの時は深く考えなかったが、真っ直ぐに見つめてくる二対の目を改めて見ると、清子は急に恐ろしくなった。また一歩下がる。男は身体ごと清子のほうを向いているが、梅の木より彼女へ近付く気配はない。微動だにせず、何かを確かめるように清子を見つめている。

 

「あの……貴方は一体、どなたですか?」

 

 誰かと訊ねたものの、正直、その男が人であるとは考えていなかった。金色の髪も、目も、角も、持ち合わせている人など見たことがない。そもそも四つの目を持つ生き物などあるはずがない。牛も馬も、それぞれ人と同じ二つの目しか持ち合わせていないのだから。

 

「見て分からなかったのか。これだから、愚かだというのだ」

 

 男は嘲るように清子を鼻で笑った。清子は少し腹を立てたが、それでもやはり恐怖のほうが勝っていて何も言えなかった。男は清子の心情などまるで気にしていないように言葉を続ける。

 

「己だけでなく、鬼も見ていただろう。ならば分かるはずだ。己が、何であるか」

「鬼?」

「大内裏を練り歩く、愚かものどもを追いかけている童がいたろう」

 

 そう言われて、清子は思い至る。赤い肌をした幼子たちと、目の前の男がそれを追いやっていたことに。そして源光茂とよく似た格好をしている、おそらく人ではない男の正体を、清子はようやく悟った。そんなわけはないと思うと同時に、そう考えるのが自然であると。

 

「まさか、方相氏……?」

「ようやく分かったか。ほとほと愚図なやつだな」

 

 方相氏の言葉を聞いた清子はじりじりと部屋の中に戻っていく。方相氏がそれに気付いた時、清子はとうとう部屋の中に入り、勢いよく障子を閉めた。息が荒い。胸がざわついている。固く目を閉じても、瞼の裏には鋭く輝く金の四つ目が浮かぶ。

 

「どうして……そんな、方相氏って本当にいるの? ……それよりも、どうしてここにいるのかしら?」

 

 清子が部屋の中で頭を抱えて悩んでいると、外で方相氏の動く気配がした。清子は息をのんで、恐る恐る障子を細く開けて外の様子を伺う。方相氏は背中を向けており、月明かりに照らされる異様な風体はどこか幻想的だ。もっとも方相氏は人間ではないのだから、それこそがあるべき姿なのかもしれないが、思わず見とれてしまう。

 

「面倒な女だな。不躾に見るくらいなら、外へ出て堂々とすればいいだろう」

「きゃっ」

 

 清子が彼をぼんやりと見つめている間に振り返っていた方相氏の言葉に驚いて、思わず声をあげる。またも方相氏は清子を鼻で笑った。また驚いてしまい、胸を押さえる。しかし異形への恐怖は拭いきれていないが、清子の中にはそれ以外の感情が生まれ始めていた。

 

「……あの、貴方はなぜここに?」

 

 ゆっくりと障子を開けて、再び部屋の外に出る。方相氏は清子に近付いてこないが、その場を立ち去る様子もない。それが、清子にとっては不思議に思えた。

 

「あの女房たちの中で、汝(なれ)だけが己を見ていた。だから……」

 

 方相氏は少し言い淀むと、清子を静かに見つめた。

 

「……少し気になっただけだ」

 

 そう言い置くと、方相氏は途端に背を向けて梅の木の向こうに姿を隠そうとする。美しい目に何かの感情がよぎった気がしたが、清子にはわからなかった。慌てて声をかけるが、無意識だった。

 

「待って! 少しだけ……少しの間だけ、お話してくださいませんか?」

 

 呼び止めたあとで、言葉を探す。方相氏は動きを止めたが、振り返らない。清子が息を飲んで後ろ姿を見つめていると、やがて方相氏は梅の木の陰に姿を消した。

 

「人なぞと話すことがあるものか。早く寝ることだ」

「あの、」

 

 にわかに風が吹き付け、髪や着物を乱暴に乱す。清子が身を縮めていると、いつの間にか方相氏の気配はなくなっていた。

 

「……寒い」

 

 白い吐息は宙にとけ、指先を見るとすっかり赤くなっている。清子は部屋に戻って障子を閉めると、布団に入った。けれど目を閉じても浮かぶのは金色に輝く方相氏の姿だけ。瞼の裏に焼き付いた四つの目が真っ直ぐに見つめてくるから、清子は寝付けずに何度も寝返りを打った。

 それでも彼女はいつの間にか眠りに落ち、いつもと変わらぬ朝を迎えた。

 

 

 

 

 

 月明かりに照らされた道を、男が一人歩いている。立派な身分の人間が乗っているのであろう車とすれ違うが、牛を引いている舎人は気付かない。金糸の髪に、五色に彩られた装束は否が応でも目に留まる。

 それにも関わらず、彼には見えていないのだ。男の姿が。

 男――方相氏は差し掛かった辻の隅で、身を縮めているものに気が付いた。骨と皮だけの餓えたその姿を、目を細めてじっと見る。それは眼窩が落ちくぼんでいるせいで、ぎょろりとして見える目で方相氏を見返している。否、その瞳は何も映さない。小さなこぶのような角を額にいただいている。

 方相氏はその前に立った。背中から受けた光で、金色の髪が輝く。

 

「……汝(なれ)が鬼である限り、己に出来ることはない」

 

 目の前で蹲るそれが、針のように細い口を開きかけた時、方相氏は持っていた鉾を躊躇いなく振り下ろした。手ごたえはある。しかし音はない。

 方相氏の前には、肩口から胴にかけて切り裂かれた鬼の姿がある。けれどそれは一瞬で、泡のように宙へ溶けてしまった。すっかり消えてしまったのを見届けると、方相氏はその場に背を向けて歩き出した。夜はまだ長い。

 ――その時、澄んだ音色が夜を打った。

 時刻は遅い。逢瀬のために起きていることは不思議ではないが、楽器を奏でるために起きているのは些か珍しいことだ。少なくとも、彼が都を歩いていて場に合わせたことは今までにない。怪訝に思いながら、方相氏は興味本位で音を辿る。どうせ人に彼の姿は見えないのだから、どれだけ都を闊歩しようと、屋敷内へ入ろうと、咎められることはない。

 

「……筝か」

 

 音に近付いていくと、奏でられているものが筝だとわかった。帝の前で弾けるほどの上手ではないが、決して下手でもない。特筆すべき点のない音色だ。もしも弾き手の正体が鬼であったら迷わずに斬り捨てようと思いながらも歩き続け、方相氏は音の出所に辿り着いた。こんな夜更けに楽を奏でるのは、人ではないか、あるいは余程の変わり者のはずだ。

 方相氏は静かに敷地に忍び込んで、さらに音へ近付いていく。音色が聞こえる庭の方へ回り込む。身を隠すのにちょうどよい梅の木を見付けて、背中を預けた。梅の香りは、春が近いことを教えてくれる。目を閉じて聞けば、思うほど悪くない。弾き手を確かめるのは、後でも良いかとしばし耳を傾ける。

 時折冷たい風が吹く。頭上高くの月は、雲に隠されてしばしば闇を落とした。静かな筝の音色が、夜の空気に染み渡る。

 どれほどそうしていたか。筝の音が止まっていることに気が付いた方相氏が目を開けた。

 

「あの……先ほどからそちらにいらっしゃるようですが、何をなさっているんですか?」

 

 女の声が呼びかける。方相氏と弾き手の他に気配はない。女から発せられた言葉は、明らかに方相氏に向けられていた。禍々しい気は感じられず、女が鬼とは、少なくとも今は思えない。このまま黙って立ち去ろうとかとも思ったが、念の為に確かめることにした。

 梅の木から離れて、月明かりの下に立つ。部屋の障子を開け放って筝を前に座っている女を正面から見据え、方相氏は女と同時に息を飲んだ。

 

「貴方は、この前の……」

 

 方相氏は心の中で舌打ちした。京の都で、彼の姿が見える者は多くない。本来彼や鬼というものは、人の目に見えないものだ。修行を積んだものや、あるいは偶々見えてしまうものがいるのも確かだが、それは多くない。立て続けに異なる人に姿を見られることも稀だが、彼が同じ人の前に姿を現すのは、それ以上に珍しいことだった。人にしてみれば、彼の姿はあまりにも奇異だからだ。筝の音色に導かれ、周囲にあまり気を配っていなかった自分を責める。まさか、追儺の日に出会った女の家だったとは。方相氏はすぐに背を向け、何も言わずに立ち去ろうとした。

 

「待って!」

 

 呼び止める声も無視して歩を進める。人になぞ関わるものではない。元より、その必要性はないのだから。方相氏は、眉根をきつく寄せた。

 

「待ってください……ねえってば!」

「……騒がしい女だ」

 

 方相氏が小さく呟くと、不意に筝の音が高く空に響いた。方相氏は思わず足を止め、少しだけ振り返る。女が筝を弾いている。白く細い指先から、静かな音楽が奏でられる。手元を見ていた女が一瞬顔を上げて、方相氏と視線を合わせた。女はすぐに視線を下げたが、方相氏は体の向きを変えて、また梅の木に背を預ける。彼女はどうやら、余程の変わり者らしい。

 

「上手くはないな」

 

 呆れながら言い放つと、女は手を止めて方相氏を見た。その顔には少し不満げな色がある。女房たちの中では、箏の弾き手と言われている方だ。

 

「……だが、楽は嫌いじゃない。それを弾くなら、少しは付き合ってやってもいい」

 

 どうせ暇だからな、と付け加えると、女は顔を明るくした。それを見て、方相氏は小さく鼻を鳴らす。

 彼女は取り立てて器量がいいわけでもない。筝の腕も、決して達者というわけではない。だというのに、なぜ女に対してこんなことを言いだしたのか、方相氏にもわからなかった。ただ、何となく、夜空に染み渡る音色が心地良いと感じた。強いてあげるとすればそれだけだった。

 

「私は紀清子(きのせいし)。貴方の名は、何と言うの?」

「そんなものはないし、そもそも汝(なれ)の名もどうだっていい。人の判別になど興味はない」

「でもそれじゃあ、私は貴方のことを何と呼べばいいの」

「好きにしろ」

 

 方相氏の言葉に、清子は考え込んだ。人間は、自分と姿かたちの似ている者が周りに多く、それぞれに名が付けられているのだから面倒な話だと方相氏は思う。なにせ方相氏は彼一人だけなのだから。互いの名をいちいち覚えるだけで、彼としては苦労なことだと思う。

 

「何がいいかしら……方相氏のままだと、牛を牛と呼んでいるのと同じようなものよね」

「人はくだらんことに頭を使うな。だから馬鹿なんだ」

「くだらなくないわ。名は大切なものよ、存在を縛るものなのだから」

 

 真面目な顔で方相氏に言葉を返す清子から目をそらす。存在を縛るもの。それは、その通りだ。方相氏は空を見上げた。いつの間にか出てきた雲が、静かに浮かぶ月にかかっている。

 

「黄色い鬼……黄鬼はどうかしら?」

 

 月の光を浴びて輝く方相氏の髪と瞳に目を留めた清子の言葉に、方相氏は眉間に深く皺を刻む。

 

「……鬼と一緒にするな。角はあるが、己は鬼じゃない」

 

 方相氏の低い声に、清子は肩をすくめた。先日には彼を恐れていたとは思えない仕草だ。

 

「それじゃあ、何か考えておくわ」

「無駄なことをするのが好きだな」

 

 方相氏は呆れ気味に息を吐いた。無駄じゃないわよ、と清子は身を乗り出す。方相氏は更に険しい表情になって清子を見た。

 

「……ただのお喋りなら帰るぞ」

 

 方相氏の言葉で、清子は弾かれたように筝の前に座り直した。静かに、静かに、筝の音が夜の都に響き渡る。方相氏は目を閉じて、その音色に耳を澄ませていた。

 

 

 

 

 

 普段は何をしているのかと清子(せいし)に問われ、方相氏は戸惑った。答える必要はないと突っぱねればそれで終わることなのに、何と返そうか悩んでしまった。そして一瞬の躊躇いが、改めて突っぱねる機を失わせた。

 方相氏が清子の元へ通うようになってからしばらくの頃。方相氏は清子の腕に何か言うわけでもなく、ただ黙って耳を傾けた。そのため、清子の腕は特に上達することはなかった。しかし清子はよほど方相氏と話したかったのか、いつの間にか筝を弾きながら話す器用さを身につけた。筝を弾いている以上、方相氏がそれを咎める理由もない。

 

「貴方の姿は、普通なら人からは見えないのでしょう? それでも貴方は存在しているわけだし、例えば日中とか、私の所へ来ない時とか、一体どうしているの?」

 

 視線は手元のまま、清子は重ねて訊ねる。方相氏は清子から視線をそらした。

 

「――鬼を斬っている」

「鬼?」

 

 怪訝そうな声を上げて、清子は手を止めた。いつもならば、方相氏は続けるように促す。清子の話には興味がないと言わんばかりに。けれど、今宵は珍しく、彼女に付き合ってやることにした。それはただの気まぐれだ。彼女に興味を持ったわけではない。

 

「都に巣食う鬼を見つけては斬る。それが己の務めだ」

 

 今日も、ここへ来るまでに何体か鬼を斬ってきた。乱れた着物を整えるように、はみ出したものを取り除くように、方相氏は当たり前のように鬼を斬る。彼は世に存在した時から鬼を斬ってきた。それが、それだけが方相氏の存在理由なのだ。都が闇の帳に覆われる何は誰時(かはだれどき)から、夜もすがらになるこの時は、特に鬼たちがうごめきやすい。

 

「それは、悪い鬼なの?」

 

 清子の言葉に、方相氏は顔を歪めた。方相氏は、たいてい険しい顔をしているから、清子にその意図は察せない。

 

「だからお前は馬鹿だと言うんだ。鬼に良いも悪いもあるものか。鬼は即ち、悪だ」

「そう……」

 

 方相氏が吐き捨てた言葉に、清子はなぜか肩を落とす。方相氏はそれを不審に思ったが、追及はしなかった。夜空を見上げると、雲がかかっていて薄暗かった。月明かりも星明かりも少ないこんな夜は、鬼が出やすい。

 

「……おい。弾かないのなら――」

 

 黙りこんだ清子を見て、方相氏はやはり無駄な話などするべきではなかったと思う。そして彼はいつものように清子へ声をかけたが、途中で言葉を切った。清子は方相氏の様子に首を傾げる。方相氏は目つきを鋭くし、辺りを見回す。その手には、いつかの追儺の時と同じ、長い鉾が握られていた。

 

「静かにしていろ。動くなよ」

 

 清子に向けてそう言い放つと、彼は再び神経を張り詰めて辺りの様子を探った。清子は方相氏に言われたとおり、口を噤んで息を潜める。

 方相氏の金色に輝く二対の目があちこち行き交う。そしてふと、庭のある箇所に目を留めた。表の通りと接している垣の根元に、小さな黒い影が丸まっている。方相氏は目を細めてそれに一歩近寄る。黒い影が微かに動いた。方相氏は手に持っていた鉾先を影に向けて更に足を進める。腕を伸ばせば鉾で刺せる距離まで近付いた時、影が大きく動いた。

 

「ちっ」

 

 方相氏は舌打ちし、鉾で影を殴る。影は地面に這いつくばると、垣根の奥の方へ、転がるように逃げた。雲が風で流れ、月明かりが降り注ぐ。露になった姿に清子は息を飲み、方相氏は眉を険しく寄せた。

 

「おい。鬼が家に出るなんて、疚しいことでもあるのか」

「そ、そんなこと、何もないわ!」

 

 幼子のように小さな体に、異様に細い手足。妙に膨れた腹と額の角。落ちくぼんだ眼窩から覗く目に、清子は粟肌を立てた。一目見てわかる。あれは、この世のものではない。この世に、在るべきものではない。

 

「……ふん。ならば命拾いしたな。何かあれば、まとめて斬ってやったところだ」

 

 方相氏の冷たい声音に、清子は心の臓まで水をかけられたように冷たくなる。情の欠片もない言葉は間違いなく本気だ。

 その方相氏が、鬼に向けて鉾を振り上げる。彼は方相氏。鬼を斬り、払うことが存在意義だ。先程聞いたばかりだから、わかっている。けれど。

 

「き、斬るの?」

「他に何がある」

「でも、その鬼、怖がっているみたいだし……大人しそうに見えるわ」

 

 異形に恐れを抱くも、それ以上に清子は方相氏を怖がっていた。庭の隅で小さくなって震えている幼子のような鬼を、彼女は憐れに思ったのだ。見た目こそ奇異だが、まるで嬲られる童のようだ。方相氏は当然それを察し、鉾を振り上げたまま清子を見て溜め息を吐く。

 

「呆れて物も言えん」

 

 その一瞬の隙を狙って、鬼が垣の上に飛び乗る。方相氏は素早く振り返り、鉾で垣の上を薙ぎ払った。しかし鬼は落ちるように後ろへ避けると逃げ出した。後を追って、すぐに方相氏は垣を飛び越える。金色の髪と青い羽織を風になびかせて高く跳んだ方相氏は、闇に包まれた辺りを見回して表情を険しくする。すでに、鬼の行方はわからなくなっていた。

 

「人の浅はかさには付き合っておれん。興が醒めた」

「え? ちょ、ちょっと待って!」

 

 垣の中から慌ただしい物音と衣擦れの音が聞こえる。

 

「この時刻だ。大人しく寝ることだな」

 

 今宵は外へ出るなよ、と方相氏が釘を刺すと、音は途端に止んだ。そして彼はそのまま、都の暗がりに姿を消した。

 

 

 

 

 

「見られたものではない顔をしているな。嫁の貰い手がなくなるぞ」

 

 障子を開けて月を眺めていた清子(せいし)は、そう声をかけられて主の姿を探した。泣き腫らして赤くなった目を隠す気もないらしい。定位置の梅の木に背中を預けた方相氏が、清子の顔をまじまじと見ていた。

 清子の前には筝がない。弾くつもりがないのだろうか、と方相氏が眉をひそめた時、清子は彼から視線をそらした。

 

「心配しなくても大丈夫よ。もう貰ってくれる人が決まったのだから」

「ほう、物好きがいるものだな」

「貴方には関係ないでしょ!」

 

 思わず立ち上がって語気を荒げると、方相氏は黙り込んだ。清子は気まずく思いながらゆっくりと腰を下ろす。こんな様子では帰ってしまうだろうと彼女が思っていると、驚いたことに、方相氏は清子に近寄って来た。いつもの梅の木よりもずっと近く。あと数歩で清子に辿り着くというところで、足を止める。

 

「上手くないなりに弾いてみるものだな」

 

 月を見上げながら零した方相氏の言葉に、清子は息を飲んだ。

 

「知って、たの……?」

「近頃、知らん車がこの辺につけていたからな」

 

 清子は恥ずかしさで顔に熱が集まるのを感じた。彼女に結婚を申し込んだのは、源光茂の息子、光行だった。彼は夜毎、都で耳にする筝の音色に魅かれたのだと言った。縁談を求めていたが、光行はどうしても楽の話ができる娘が良かったのだという。そして夜の音色を辿ってくると、清子だとわかったのだ。急な申し出に戸惑う清子よりも父親のほうが喜び、この機を逃してはならないと、すぐに結婚を取り付けた。そこには当然、清子の意思は存在していなかった。

 

「べ、別に私はあの方とお付き合いしたいわけじゃ――」

「行き遅れるよりはよかろう」

 

 何ということもなく告げる方相氏に、清子は何か言わなければならないと思った。けれども清子にそんな隙を与えず、方相氏が言葉を続ける。

 

「帰るぞ」

 

 どうせ弾かんだろうという方相氏に、清子は力なく俯く。そんな清子の様子を気にかけた風もなく、方相氏は背を向けた。儚げに揺れる金糸の髪に手を伸ばしかけて、清子はそっとその手を下ろす。彼女が泣いていた理由など、彼には興味もあるまい。

 清子の視線の端で、方相氏が振り返った。

 

「……一つ、忠告しておいてやろう」

「忠告?」

 

 方相氏の言葉に、清子は怪訝そうな表情を浮かべた。彼はいつもそこにある嘲笑を引っ込めて、ひどく真面目な顔をしていた。その雰囲気を察して、清子は身構えながら彼の忠告を待つ。

 

「汝(なれ)が結婚を嫌がろうが断ろうが、己には関係のない話だ。しかし、自らの内に抱く邪な想いや、人から向けられる負の感情は、鬼を呼ぶ。例え当人にその気がなくとも、鬼は産まれ、太り、やがて害をなす存在となる」

 

 金色の二対の目に見据えられて、清子はまるで心の中を見透かされているような気になった。

 

「早死にしたくなければ、鬼を寄せないようにすることだ」

 

 そう言って方相氏は再び身を翻し、闇に消えた。あれほど目立つ格好をしているにも関わらず、彼はすぐに闇に紛れてしまう。

 一人残された清子は、行き場を無くした手をそっと胸に当てた。

 

 

 

 

 

 夜――と言っても、まだ日が暮れ始め、まばらではあるけれども、人の通りが見られる頃、方相氏は通りを歩いていた。陽が沈む前に家へ帰ろうと急ぐ人々は、誰一人として異様な姿をした方相氏に気付かない。

 方相氏が清子(せいし)の元を訪れなくなってから久しかった。結婚が決まったというのに、普通の人間には姿が見えない方相氏と夜な夜な話をしていては彼女の外聞が悪くなる。方相氏にとって清子は特別な存在ではなかったし、はっきりいってどうなろうと構わなかったのだが、彼はそれで己の存在を勘繰られることを疎んだのだ。方相氏は、本来人に見られるべき存在ではない。

都に響いていた筝の音は、いつしか止んだ。

 しばらくの間、方相氏はあてもなく夜中に都中を歩き回っていた。それまで自分が何をして過ごしていたのか、すぐには思い出せなかった。けれども鬼を見付けて斬るたびに、自分の本来の役目を思い出し、そちらに集中するようになった。近頃、妙に出現する鬼の数が増え、彼としても手持無沙汰になることはなかった。けれども都に鬼が溢れている状況は歓迎できるものではない。原因を探りながら、方相氏は今日も鬼を斬っていた。

 

「やはり妙だな……何かあるとしか思えん」

 

 人通りが少なくなった道で立ち止まり、方相氏は顎に手を当てて考え込む。鬼の異常発生に原因があるとすれば、そこを叩かなければいくら鬼を斬っても意味がない。この調子では、いつ鬼が人に害をなすかもわからない。何かしら手を打たねばなるまい、と眉をひそめたところで、さほど遠くないところから悲鳴が聞こえた。その悲鳴の中に鬼と言う単語を聞き取って、方相氏はすぐに駆け出した。

 いくつかの角を曲がって大通りに出る。方相氏の側を、一人の男がほうほうの体で逃げて行った。もちろん男は、方相氏に気付かない。方相氏はそちらにちらりと目をやって、すぐに視線を前方に戻した。横腹を食い裂かれて寝転がっている牛の死体と、桜の花びらのように辺りを舞う白い泡にきつく眉を寄せて、見上げるほど大きな鬼を睨んだ。その白い泡には、嫌というほど見覚えがある。

 

「力を得るために、見境なく食ったな」

 

 優に人の倍は背丈がありそうな巨大な鬼。額には短く鋭い角を持ち、落ちくぼんだ眼窩から覗く目は赤い。骨と皮だけのような手足は、けれども十分に太く、薙ぎ払うだけで人一人くらい吹き飛ばすことができそうだ。警戒しながら鬼を観察していた方相氏は、異様に膨れ上がった腹部を見て、ようやく鬼の正体を知る。

 

「その姿――餓鬼(がき)か」

「ああ、そうだよ……だが、他の餓鬼と一緒にしてもらっちゃ困るな」

「……口まで利けるのか」

「おのれは力があるんだ」

 

 胸を張る餓鬼を見て目を細めると、方相氏はいつの間にか手にしていた長い鉾を宙で一閃した。風切り音に、餓鬼が視線を下ろす。

 

「なんだ? ……うぬ、角はあるがおのれらの仲間ではないな。何者だ!」

 

 餓鬼が地面に叩きつけた長い腕の隙間を縫って、方相氏は餓鬼に向かって走る。餓鬼は、牛が牽いていたのであろう横倒しの車の後ろに座っている。方相氏を見て立ち上がろうとしたが、それよりも早く、方相氏が車を台にして跳び、鉾を振り下ろした。鈍い音と手応えを感じるも、あまり効果はないようだった。方相氏はそのまま餓鬼の背面に着地する。

 

「無駄に丈夫なのか。厄介だな」

 

 そう言いながら、方相氏は鉾を道に投げ捨てると、どこからともなく抜き身の刀を手にしていた。鉾が当たったところから、僅かに白い泡が零れている。ゆっくりと餓鬼が振り返った。赤い目には、怒りがたぎっている。

 

「おのれに、刃向うのか……!」

「刃向うも何も……」

 

 刀の切っ先を餓鬼に向けて構えた方相氏は、低く腰を落とす。

 

「己は方相氏、鬼を斬る者だ。刃向っているのは、むしろそちらだろう」

 

 挑発するように笑った方相氏に向かって、餓鬼が喚きながら腕を振り上げた。もはや言葉になっていない。方相氏は迫ってくる腕を避け、餓鬼に近付いて身体を斬り付ける。傷は深くないが、方相氏に斬られた所から一気に白い泡が零れ落ちる。素早く駆け回る方相氏に対し、餓鬼は大振りな動きしか取ることができない。餓鬼の攻撃が当たれば方相氏にも大きな痛手となろうが、当たらなければ関係のない話だった。餓鬼の体に、刀傷だけが増えていく。それと同じくして通りを白い泡が埋め尽くしていく。

 

「な、なぜだ……おのれは、力を得たはずなのに!」

「たかが小鬼数体、牛一匹を食らっただけの力で敵うと思ったのか? 図々しいのを通り越して愚かだな」

 

 餓鬼にはそう言ったが、方相氏はなかなか手こずっていた。今までの鬼とは違い、体も丈夫であればその大きさに見合っただけの体力もある。餓鬼は確実に消耗しているようだが、それは方相氏も同じことだった。悟られぬよう密かに息を吐き出すと、呼吸を整えて再び餓鬼を斬り付けにかかる。

 

「力を得てしまったことを嘆くことだ!」

「くっ……ふふ……ふははは!」

 

 肩口を切り裂かれた餓鬼は、方相氏の言葉になぜか笑い出した。不審に思った方相氏は、動きを止めて様子をうかがう。足場が悪い。餓鬼は体中の傷の痛みに顔を歪めながらも楽しげな笑みを浮かべて方相氏を見下ろしている。

 

「ははは! 嘆くだと? うぬから逃げることで力を手にしたことを、悔いるものか!」

「何だと……?」

 

 言葉の意味がわからない様子の方相氏を前に、餓鬼は横倒しになっている車を掴んだ。餓鬼が力を込めると車はいとも容易く壊れ、手の中で潰されていく。指の隙間から破片が落ちていった。

 

「元はと言えば、この愚かな女のおかげだったけどなあ?」

「っ、それは……!」

 

 餓鬼が広げた手の平の中に、気を失っている清子の姿を認めた方相氏は、清子の胸がわずかに動いていることを確認するとすぐに刀を構えた。

 

「――あの時の鬼だったのか」

 

 やはりあの時斬り捨てるべきだった、と方相氏が吐き捨てる。餓鬼が笑う。陽は沈み、闇が侵食し始めていた。

 清子の命が餓鬼に握られているからには、迂闊(うかつ)に動くわけにもいかない。不意打ちを狙って方相氏が手に力を込めた時、餓鬼は広げていた手をゆっくりと握っていく。刹那の隙を、じっとうかがう。

 

「う……」

 

 清子が苦しそうな声を上げるが、起きる気配はない。

 

「おのれは、鬼を食ってここまで大きくなった」

 

 清子を持った餓鬼の手がゆっくりと上がっていく。彼女を握りつぶす気ではないのか、と方相氏が一瞬だけ怪訝に眉をひそめる。

 

「ならば人を食えば、もっと大きくなれるはずだ。もっと強くなれるはずだ!」

「…………ろ……」

 

 方相氏の目が、刹那開かれる。薄闇の中に、金色の目が四つ浮かび上がる。

 

「うぬの言う通り、この女は――馬鹿だ」

 

 だからおのれに食われる、と餓鬼が大きな口を開けた。

 

「……めろ……」

 

 まばらに尖った餓鬼の歯が、清子の白い首筋に触れるか否かという瞬間――察した方相氏が弾かれたように動き出した。

 

「やめろ!!」

 

 にたりと笑った餓鬼と、鬼のような形相をした方相氏。

 清子の首に餓鬼の牙が埋まる前に、方相氏は一気に距離を詰める。その速さに餓鬼は思わず清子の首から口を離した。一瞬の隙を見逃さず、方相氏は更に速く駆けて、一閃。餓鬼の膨れあがった腹部を大きく切り裂いた。竹を割るように開いた腹部から、大量の白い泡が溢れ出る。桜吹雪のようにそれが舞い散ると、餓鬼の体は萎んでいった。

 

「人を、食えば――」

「させると思うのか」

 

 餓鬼は慌てて手を引き寄せ、清子に向けて再び大きな口を開いた。けれども背後に回っていた方相氏が高く刀を振り上げるほうが早かった。いつの間にか闇に包まれていた空に、三日月の如く白刃が煌めく。

 

「や、やめ――」

 

 振り返りながら懇願する声を断ち切るように、方相氏は刀を振り下ろした。怯えた表情の餓鬼の首が地面に転がる。斬られた首の辺りからも白い泡が溢れ、見る見るうちに、通りを埋め尽くしていた花びらのような泡とともに消えた。

 雲の切れ間から月明かりが覗きこむ。辺りに人の気配はない。通りには砕けた車の木片と牛の死体、そして、地面に横たわる清子の姿があった。

 

「……おい、しっかりしろ」

 

 刀を納めた方相氏は、清子の側に膝をついて顔を覗きこんだ。首筋に裂傷がある。それ自体は大きな傷ではなかったが、流れる血が多く、首から下がべったりと汚れている。せっかくの春らしい藤の重ねも、紅梅より深く赤く色付いてしまっていた。辺りの土も、血を吸ってどす黒く染まっている。

 

「…………忠告、して、もらったのに、」

「無理に喋るな。……ちっ、出血が多くてどうにもならん」

 

 方相氏は背中に垂れている青い羽織を清子の首から上半身にかけて巻いた。傷口からはまだ血が流れ出ている。白い光に照らされる土気色の清子の顔と、触れた肌の冷たさに、方相氏はそれ以上の悪態を引っ込める。力が強かったのか、清子が喉の奥で呻いた。方相氏は一度手を止めたが、青い羽織さえ黒く染まっていく様子を見て、すぐにまた強く巻いた。

 

「あの、鬼……」

「だから言っただろう。鬼は即ち悪だと」

 

 清子の言葉を先回りする。けれど、清子の言うことに動きを鈍らせ、非力だった時に餓鬼を始末しなかった自分が一番悪いのだと分かっていたから、方相氏はそれ以上口を噤んだ。なんと言葉をかければいいか分からなかった。清子がもう助からないであろうことは、人ではない彼にも痛いほどよく分かった。見慣れぬ赤い色に染まった両の手を見れば、そんなことは明らかだった。

 

「……わたし、が、悪いの……」

 

 弱々しい清子の声は聞き取りにくく、方相氏は横たわる清子の体を、強く両腕に抱いた。空から降る明かりが雲に遮られ、闇の中に方相氏の金色の目と髪と、清子の青白い顔だけが浮かび上がる。

 

「結婚、なんてしたく、ない……」

 

 清子の呼吸がひゅうひゅうとかすれ始めた。方相氏は一人唇を噛み締める。

 

「ちゅう、こく、してもらった、のに……」

「もういい……喋るな……」

「思って、しまっ、た」

「もういい!」

 

 方相氏がいくら言っても、清子は喋るのを止めなかった。苦しそうに途切れ途切れではあったが、彼女は言葉を紡ぐ。

 

「――わたしは、あなたが、好きだ、と」

「……っ!!」

 

 苦痛に眉を寄せ、それでも清子は精一杯の微笑みを浮かべた。方相氏は何も言えず、顔を伏せた。長い金髪に隠されて表情が見えなくなる。清子は自分の視界が滲み、霞んでいくのを感じながら、ゆっくりと手を持ち上げた。何気ない仕草さえ彼女の力を奪うには十分で、清子の手は方相氏の頬に届く前に力なく落ちた。けれどそれが地面に落ちる前に、方相氏が片手で受け止め、しっかりと握る。水に浸したように、冷たい。

 

「……馬鹿な女だ」

 

 方相氏の言葉が聞こえたのか、それとももう耳には届いていないのか、清子は静かに瞼を下ろした。再び、雲間から月が二人を照らし出す。

 

「……ふしぎ、ね」

 

 物音はしなかった。次第に弱くなっていく清子の呼吸だけが、夜の静寂に響く。

 

「死ぬことが……怖く、ないの」

「……そうか」

 

 方相氏は、そう言うのがやっとだった。長い沈黙が流れる。

 

「うれしい、の。あなたいがいの人と……結婚、しなくて、いいから」

「…………」

 

 返す言葉がなかった。あの夜、清子が目を赤く腫らしていた理由を今さらに知る。

 

「……あなたの、なまえ」

 

 清子の急な言葉に、方相氏は目を瞬く。

 

「うじ、ってどう、かしら」

「うじ……宇治、か?」

「……ええ……」

 

 かつて皇子が都を遷(せん)したという、宇治の地。すぐに場所を移してしまったが、都であったのは確かだ。清子自ら、名は存在を縛るものだと言ったし、方相氏も、少なくとも人にとってはそうであろうと思っている。名は縛り。その名は土地。彼はその地に関わりがないし、これまでに聞いた話では、清子も関わりはないはずだ。意図を察せずに片眉を上げたが、やがて思い至る。己が、人に害なす鬼を斬る存在であると、彼女に告げたことに。

 

「…………悪くない」

 

 彼は、微かに笑みを浮かべた。

 都は、人々の願いによって築かれた。人を護り、国が平らかであるように。清子は、それを方相氏の在り方と重ねたのだろう。

 春と言っても、今はまだ冬が終わったばかりで、冷え切った空気が体を冷やす。冷たく凍った清子の手を握りしめていた彼は、しばらくして顔を上げた。血色は良くないけれど、まるで眠っているかのように穏やかな清子の顔。眉間に寄せたしわをふと緩めた時、その胸が上下していないことに気付いた。

 

「おい、」

 

 声をかける。清子の瞼は開くこともなければ、震えることもない。

 

「起きろ。こんな所で寝るつもりか」

 

 軽く体を揺すっても、声の一つも上げない。固く握りしめていたはずの清子の手が、抜け落ちて垂れ下がる。

 

「――清子…………?」

 

 そして彼は、ようやく理解する。

 ――紀清子という一人の人間が死んだことを。

 空を覆っていた雲は風に流されて彼方へ消え去り、無遠慮な月の光が、冷たく道を照らしていた。

 人気の絶えた道で、誰の耳にも届く事のない慟哭が、ただただ響いていた。

 

 

 

 

 騒々しい音に驚き肩をすくめ、音のしたほうに目をやる。深い肘掛椅子に座り、開いたままの本を顔に乗せて眠っていた彼の相方が、目を覚ましたようだった。

 

「ちっ。最悪の寝覚めだ……」

 

 仕立ての良い西洋服に似合わぬ悪態を吐きながら、床に落ちた本を拾う彼を横目に、御鳥朗士(みどりろうし)は整理していた紙類に紐を通してまとめた。湿気で墨が滲んでいるような気がしたが、気のせいだと思うことにした。

 外が土砂降りのせいか、ただでさえ閑古鳥が鳴いている御鳥探偵事務所は、輪をかけて落ち着いていた。御鳥の相方である方相宇治(かたあいうじ)が居眠りをしていたのも仕方がないことだ。御鳥だって、正直瞼が重くなってきている。もっとも、方相はそうでなくとも、常から偉そうに椅子を占領して、ふんぞり返っているのだが。

 

「いよいよ客なんて来るまい。もう閉めたらどうだ」

「それもそうだよねえ……」

 

 長い金髪を邪魔そうに背中へやった方相は、大きな欠伸を隠すこともせず、窓の外をぼんやりと眺めた。まだ夕方には早い時間だが、往来に人通りは少ない。中にいても、屋根を叩く音から雨の強さがうかがえる。方相の言葉に従うように、御鳥が表の看板を返そうと立ち上がった。肌に触れる着物を蒸し暑く思って、襟を少しだけ広げる。気持ちも楽にならない。ため息を吐いた御鳥はひとつ思い出して、窓の外をじっと見ている方相を振り返った。

 

「そういえば、宇治」

 

 方相は、振り返らずに視線だけ返す。

 

「せいし、って誰だい? 女の人の名前みたいだけれど……」

「……お前、何故その名を?」

 

 金色に輝く二対の目を驚きに見開いた後、すぐに鋭くさせて御鳥を睨み付ける。怒っているようには見えない。ただ、何故、と詰問する感情が押し込められている。しかし方相の眼光に怯むことなく、御鳥は真っ直ぐにその眼を見つめ返した。御鳥の視線に、一瞬だけ方相の眼差しが揺らぐ。そして御鳥が、ふっと表情を和らげる。

 

「寝言、言ってたよ」

 

 御鳥の言葉を聞くと、方相は目を伏せた。珍しい相方の様子に、訊いてはいけないことだったか、と御鳥が次の言葉を選んでいると、不意に方相が動いた。窓から離れ、先まで座っていた椅子の背もたれにかけていた洋服の上着を取り、袖を通す。御鳥が動けないでいるうちに、方相は事務所の入り口に立って、深い藍色の和傘を持っていた。

 

「出かけるのかい?」

 

 そこでようやく口を開いた御鳥を一瞥して、方相は無言のまま事務所を出て行ってしまった。乱暴に閉じられた扉を見つめて、御鳥は苦笑を浮かべる。

 

「宇治も、結構わかりやすいよなあ」

 

 だからこそ出て行ったのだろう。曲がりなりにも相方だ。御鳥は、他の誰よりも方相についてわかっている方だと思っていた。彼が自分から口を開かないのであれば、これ以上触れるべき話題ではない。元々何の気なしに訊ねただけだから、さして気になるわけでもないのだ。

 御鳥が今度こそ表の看板を返そうと思った時、今しがた方相の出て行った扉が開いた。

 

「あれ、始じゃないか」

「やあ。今日も暇そうだね」

 

 顔を出したのは、紺色の着流しに身を包んだ背の高い青年だった。妙に苦い顔をした顔見知りの姿に、御鳥は首を傾げる。始は御鳥に向かって片手を上げながら挨拶すると、不思議そうに後ろを見ていた。

 

「さっき方相とすれ違ったんだけど、なんであんなに機嫌悪いの? そりゃいつもあんな感じだけどさ」

 

 畳んだ傘を傘立てに入れ、眉を寄せながら来客用の長椅子に腰を下ろした始を見て、御鳥は少し考え込む。心当たりはあるし、八つ当たりされた始を可哀想だとも思う。けれども御鳥は、あえてそれらの思ったことを口に出さず、笑いながら茶を煎れに台所へ立った。

 

「ちょっと御鳥、何がおかしいわけ? いつも僕がとばっちり受けてるんだけど」

「ごめんごめん。でも今日くらい、勘弁してあげてよ」

「どういうこと?」

「宇治にも、色々とあるってこと」

 

 怪訝そうに声をあげる始にそれ以上の返事をせず、御鳥はお茶請けを探して戸棚を開けた。先日、依頼人から礼としてもらった羊羹がある。ちょうどいい。

 平安時代から生きてきた方相氏にとって、「せいし」という人物がどんな存在であったか、御鳥には知る由もない。彼は、御鳥が知る中では誰よりも長く、人を見てきた。長い年月のうちに、様々な出会いも、別れもあったに違いない。けれど今、方相宇治として大正の時代を生きる彼に訊ねるべきではないのだろうと思う。聞かなかったことにしようと決めて、御鳥は三人分のお茶を煎れた。お茶が冷める前に、帰ってくればいいけれど、と思いながら。

© 2020- 文思谷一星 Wix.comを使って作成されました

bottom of page