幸せのあふれる瞬間
「秋の七草って、何でしたっけ」
仕事がひと段落ついたので、目を閉じてソファで横になっていると、そう訊かれた。問いかけではあったが、声の主は、別段返事を期待していなかった。半ば独り言である。それを確信しているから、だんまりを決め込む。
「ゴギョウ、ハコベラ、芹なずな……」
懸命に思い出そうとしているようだが、指折り数えているであろうそれは正月の方だ。わざわざ口を開くのは面倒だから、依然無視するが。
「あ、これはお正月の方か。えーと、萩すすき女郎花(おみなえし)……あと何だっけ」
改めて数えているのだろう。正月の方だと気付いてくれたのは気が散らなくていいが、やはり先が出てこない。悩む声を聞いていると、わざとなのか疑いたくなる。否、わかっているのだ。これがいつものことだとは。だからさほど答えを求めているわけでもないし、数えている先が出てこないのも、わざとではないのだと。――わかっている、のだが。
仕事が終わったところだというのに、配慮というものがないらしい。普通、自分の主人が眠っていたら気を利かせて静かにするか、部屋を出て行くものではないのか。給料を下げてやろうかと思ったが、これ以上喧しいのも鬱陶しくて、結局、身を起こした。
「萩の花、尾花葛花撫子の花、女郎花また藤袴(ふじばかま)、朝顔の花」
「あ、先生!」
「わからんのなら、それくらい自分で調べろ。おちおち寝てられん」
「ごめんなさい……って、朝顔って夏じゃないんですか?」
何度目のことか。こうして、根負けしてしまうのは。
長い金髪を簡単にまとめていると、助手……というよりは、ほぼ家政婦である湯来野清花(ゆきのさやか)が素直に疑問を呈した。今の話を聞いていなかったのだろうか。わからないのなら自分で調べろ、と言ったところばかりだが。
答えるのも面倒だったが、清花の顔を見ていると答えないのも面倒に思えてきて、ため息を吐く。
「……この朝顔の花は、定説では桔梗の花と言われているらしい」
「へえ。そうなんですね」
「……山上憶良(やまのうえのおくら)だぞ」
「え、えへへ。聞き覚えはあります」
「……はぁ」
重ねてため息も出るというもの。嘆息する清花を見ていると、もはや悩んでいたこともどうでもよくなってきた。疑問も持たないよりはまだましなのだが、自分で調べないのならば何のために学校へ通っていたのか疑いたくもなる。賞与の代わりに、辞典でもくれてやるべきか。
ともあれ、こちらが疑問を解消してやると、清花は背を向けて何か作業を始めた。これ以上ぼろを出すのはまずいと思ったのか、あるいはこれ以上語るべきことがないだけか。いずれにせよ、静かになるのならこちらとしては願ってもない。
しかし、ふと疑問がわきあがる。
「なぜ急に、秋の七草なんぞ言い出したんだ」
九月も下旬。秋といえば秋だが、それとこれとがどう結びつくのかわからない。清花が突拍子もないのはいつものことだが、それにしても、何もきっかけがないとは思えない。よもや、次の絵の題材にしろと言っているのでもあるまい。その場合はそれとして、直接言ってくるだろう。
そう思って、純粋に問いかけた。
「今朝来る時に、金木犀の香りがしていたんです。秋だなーと思って、ふと連想して」
「……くだらん」
清花は振り返り、微笑んだ。けれど思っていたよりどうでもいい理由だったので、一言で切り捨てる。どうしても自分で済ませなければならない用があるときくらいしか、外へは出ない。清花は通いだ。来るなと言った日以外は、毎日律儀に町から外れたここまでやってくる。その道中での話だろうが、驚くほど俺に関係のない話だった。
再びソファへ横たわる。ここ数日は絵にかかりきりで、寝る間も惜しんで作業していた。急ぎではなかったが、描き始めると、早く終わらせたくなるところがあって、おかげで些か寝不足なのだ。目を閉じる。
……しかし、清花に触発されたわけではないが、寒くなる前に、どこか外へ出るのも悪くないかと微睡みながら思う。ごみごみした世間は好かない。けれど外に溢れる景色は、どちらかといえば好きだ。だから、出かけること自体も嫌いではない。紅葉はこれまでに腐るほど見たから、絵の題材にするなら、もっと別のものが望ましい。別に、秋らしいものである必要はない。海へ行くには、少し涼しすぎるだろうか。適当な街まで電車で出かけるのもありだ。
考えていると、微睡みの中から意識がすくいあげられていく。
思い立ったが吉日、という柄ではないが、日を置くと面倒になるのもまた事実。
「湯来野」
「はい?」
横たわったまま、清花を呼ぶ。重い瞼を押し上げる。
「明日から出かける。二、三日は来なくていい」
「急ですね。どちらへ?」
「まだ決めてない。……これから少し寝るから、今日は好きな時に帰っていい」
自然と瞼が下りてくる。言葉にあわせて、片手をひらひらと振る。わかりました、と清花が素直に答えた。詮索してこないのは、それが無駄だと知っているからだろう。例え行き先を決めていても、彼女に伝える必要はない。そう割り切っていることを、長くない付き合いなりに学んでいるらしい。結構なことだ。
改めて睡魔が押し寄せてくる。清花が作業する物音は聞こえていたが、それも子守唄のようになり、いつしか眠りに落ちていた。
目が覚めた時、部屋の中は真っ暗だった。
元々屋敷の外にも明かりは少ないが、清花がきちんとカーテンを閉めて帰ったために月明かりすら差していない。どこか一カ所でも明かりがついてしまうと目が覚めてしまうと気を遣ったのがわかる。
暗がりに目をならしながら、起き上がって部屋の明かりのスイッチを探す。壁際のスイッチを点けると、部屋が橙色の光に包まれた。今度は眩しさに目をならすため、何度か瞬きした。
髪に手ぐしを通して、辺りを見回す。いつの間にか机の上に、旅行用の鞄と、外で描く時に使うイーゼルがまとめてあった。清花が用意したのだろう。余計な世話は焼かなくていいと言っているのだが、何くれと気を回す。人付き合いが面倒だから、画商や近所との相手をさせるために雇っているので、業務のうちに家事や雑用は本来含まれない。が、本人が暇を持て余して何かしたいと言うので、ついでに頼んでいるだけだ。給料は変わらないと言っても、気にした様子もない。清花を見て、使いっ走りだかお手伝いだかわからないと素直に言ってきた知己もいる。
年が暮れる前に、一度馴染みの画商に絵を引き取ってもらわなければならないだろう。アトリエも倉庫も、キャンバスで手狭になってきた。仕事を受けた以上に、思いついた絵を描いてしまうのだから当然だ。かといって、思いついた以上、筆を取らないわけもないし、描けば満足してしまうため、完成した絵があっても邪魔なだけだ。戻ってきたら、清花に伝えておこう。正しく彼女の出番だ。
キッチンに向かおうと廊下に出て、ふと気付く。
ほのかに、甘いような、懐かしいような香りがする。
首を傾げながら、廊下のスイッチも点けた。静まりかえる廊下を見回して考え込んでいたが、ようやく気がつく。
玄関の花瓶に、金木犀の枝が差してある。清花の仕業だろう。わざわざ取りに行って戻ってきたのか。というか、よもや無断で折ってきたのではないだろうなと要らぬ心配をする。……まあ、それくらいの分別はあるだろう。そう信じたい。玄関に花瓶があるのは認識していたが、あれがどういった経緯で手に入れたものだったか覚えがない。この屋敷には、その手のものがごまんとある。
玄関まで行くと、香りが強くなった。橙色の小さな花がいくつもついている。
わずかな花でもこれだけ香るのだから、不思議なものだ。しかしこれも、数日後に帰ってくる頃には香りは薄れて消えているだろう。彼女は、ただこの一瞬のために金木犀を置いていったようなものだ。物好きとしか言い様がない。
……清花に触発されたわけではない。そういうわけではないが、普段は風景ばかり描いているから、いつか、この絵を見せようかと考えている相手が知らぬ景色ばかり描いているから。だから、たまには、彼も知っているものを描いてもいいかもしれない――そう、思った。街は変わっていくけれど、花は変わらずに咲くのだと。それが一瞬の儚さであっても、繰り返し、また繰り返して、花は咲き続ける。百年も、二百年も前から。百年も、二百年も先まで。
言葉にするのは、柄ではない。この考えを口にすることは、天地が逆さになっても有り得ないだろう。けれど、絵が語るくらいならば、それもいいと思う。鈍い彼が気付くとは、正直思えないのだが。
確か、遠くないところに植物園があったはずだ。萩や葛の花は、ちょうど見頃だろう。部屋に戻って、受話器をとる。
「……湯来野か。予定変更だ。明日までに、この辺りの植物園を調べておけ」
『わかりました、けど……』
「それと一泊する用意もしておけ。念の為だ」
『えっ。私も行っていいんですか?』
「誰が道案内をすると思ってるんだ。昼には出る。いいな」
『は、はい!』
清花の返事を聞くと、早々に切る。
知己に今の姿を見られたら、「変わった」と言われるだろう。少なくともそれは事実だし、自覚もしている。
けれど街が変わり、人が変わるのなら、ひとりだけ変わらないままではいられない。それを気付かせてくれた存在を思うと、わずかながら、幸せという感情に近い気がした。