まぼろしの外へ
――三月。
多くの子供たちが学び舎から飛び立っていく、卒業式。
風と桜と、涙と別れ。二度とない過去を抱き締めて、子供たちは未来へ歩んでいく。
木造二階建ての小ぢんまりした校舎を構える、この、まぼろし学園も卒業式を迎えていた。あまり多くない全校生徒と保護者に見守られた卒業証書の授与も無事に終わり、今は教室で、最後の帰りの会が開かれている。
「――さて」
担任の伊丹(いたみ)が、教壇からぐるりと教室内を見回した。泣いている者、笑っている者、あるいはいつもと変わらない者など、みな様々だ。伊丹の背には、色とりどりのチョークで「卒業おめでとう」と書かれた黒板がある。余白には生徒たちの言葉も書かれていて、それ一つが大きな寄せ書きのようでもある。
伊丹が口を開くと、生徒たちは一様に、彼に目を向けた。子供たちの視線を受けて、伊丹は目を細める。
「改めて、卒業おめでとう。俺がみんなと一緒にいたのは一年だったけど、君たちは三年間、よく頑張ったと思う」
入学した時は高いと感じていた椅子と机も、今では少し小さくなった。
大人だと思って憧れていた先輩が卒業していくと、学年が上がることが大人になることではなかったとわかった。
伊丹の言葉は少しクサかったけれど、卒業するとお互いにほとんど会わなくなると予感している生徒たちは、今日ばかりは茶々を入れない。
「俺はあんまり、かっこいいこととか言えないんだけど……どんな出来事が自分を変えて、形作っていくかは、そうなってみるまで分からない。だから俺は、君たちがこれから先、たくさんの出会いを得て、たくさんの経験を得ることを願っている」
「先生もそうだったの?」
教壇の前の席に座っている生徒が伊丹に訊ねる。それをきっかけに少しざわつきだした教室内に苦笑を向け、伊丹は頷く。この話をすると決めていたからには、問いも想定内なのだろう。
「ああ。あの人に出会ってなかったら、俺は教師をやってなかったと思う」
「それって誰?」
「ふっふっふ……めっちゃ有名人」
自慢気な伊丹の言葉に、次々と驚きの声や追及の声が重なる。けれど伊丹は、あえてその名を明かすことはなかった。生徒たちは構わなかった。ただ、よく話を聞いてくれるけれど、自分の話は滅多にしない伊丹だから、彼が話してくれるならば何でもいいのだった。寂しい、悲しげな空気を吹き飛ばしたクラスの活気に、伊丹は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「てか先生って、先生になる前は何してたの?」
「あ、それ気になる」
教室内の雰囲気が緩んだせいか、続けて別の生徒が問いかける。伊丹は再び苦笑を浮かべた。
「俺? ろくに働きもせず、ぶらぶらしてた」
「駄目な大人じゃん!」
「そうだよ。知名度だけはあったからな」
「卒業式にそういう話すんなよなー」
生徒のツッコミに、どっと笑いが起こる。見た目こそ若い伊丹だが、彼が結構な年齢であることは周知の事実であるし、彼の名前ならば、生徒たちも彼が赴任してくる前からよく知っていた。一年前に伊丹が赴任してきた時は生徒たちもはしゃいでいたが、見た目や感覚の年の近さからか、次第に友人のように親しむようになっていった。
伊丹自身も、一年間教師として勤めて、他者と関わることを学んだ。それまでろくに働きもせず、知人とだけ交流していた彼にとって、若さに目映い生徒たちは、新しくも懐かしい存在である。生きる道は一つではないと彼は学んだし、それを出来る限り、生徒たちへ伝えたいと願って教壇に立ち続けた。
「俺は駄目な大人だったけど、ある人に出会って、教師になろうと思ったんだ。そういうことは、たぶんこれから先、みんなにも訪れると思う。俺は君たちに、そういう出会いや出来事を大切にしてほしい」
活気ある空気から一転して、静かに耳を傾ける生徒たちは、彼ら自身が思っていなくとも立派な大人だった。巣立っていく生徒たちを、伊丹は胸を張って送り出せる。伊丹が彼らに伝えられたことは、きっといくらもない。けれど子供たちは、各々が感じ取って学んでくれたはずだと信じている。
「未来をどうするか、それは君たちが決めることだ。だけど迷った時や、立ち止まりたくなった時は、俺が一緒に休むから、いつでも戻ってくるといい。……俺も、いつまでここにいるか分からないけどな」
付け加えた言葉に生徒たちは笑みをこぼす。
彼らが大人になったとはいえ、進む先は不安だらけだ。正直、不安しかないかもしれない。その思いは、かつて伊丹も抱いていた。
伊丹は自分を駄目な大人だったと言うが、一年間をともに過ごした生徒たちから見れば、伊丹は立派な大人の先輩である。彼が贈ってくれる言葉や想い。それは、これから先の未来を確かに支えてくれると思えた。
「それじゃ――」
伊丹が再び口を開くと、ちょうど終業の鐘が鳴った。
「先生のお話もおしまーい」
「帰ろー」
「おいおい。俺が真面目に話すなんて滅多にないんだから、みんな忘れんなよ」
いつもの放課後のように、生徒たちは帰り支度を始める。普段と違うところと言えば、みな左胸に花の飾りを付けて、手には卒業証書の入った筒を持っているくらいだ。
いつもと変わらない。その様子が、伊丹には一番彼ららしく感じられて嬉しかった。苦笑いするけれど、それ以上の演説は伊丹も引っ込める。
生徒たちの帰り支度を待って、伊丹も見送る用意をする。校舎の外では既に後輩たちや保護者たちが待っているだろう。全員の支度が終わると、学級委員長が号令をかける。
「起立」
がたがたと椅子が音を立てる。この賑わいも、今日で最後だ。
「気を付け」
生徒たちが背筋を伸ばすと、伊丹も同じように姿勢を正した。
「礼」
「一年間、ありがとうございました!」
元気な声で頭を下げる生徒たちの姿に、伊丹は少しだけ視界をにじませた。けれどすぐに上がった生徒たちの晴れやかな顔を見ると、それ以上の涙は出てこない。
「お疲れさんでした」
伊丹の最後の言葉を聞くと、生徒たちは笑ったり泣いたりしながら教室を出て行った。「先生じゃあねー」と挨拶する最後の一人を見送ると、伊丹は静かになった教室を見回した。今はがらんとして寂しい感じがするが、これもまた、次の春が来れば新しい活気にみちる。別れを迎えて、見送る側もまた大人になるのだろう。伊丹は、これから生徒たちに学ぶことがたくさんあるのだろうなと思った。
窓を開けて、和気藹々としている生徒たちを見下ろす。今はまばらに咲いている桜も、今度の入学式までには満開になるだろう。あたたかい空気も、気持ちも、決して悪くないと思えた。
伊丹の眼下で賑わいを見せる彼らは、学園の門をくぐれば、もはや生徒ではない。各々が道を選び、生きていかなければならない。それはかつての伊丹のように何もしないことだったり、今の伊丹のように職に就くことだったり。あるいは彼らの多くは、人間に化けて、紛れて暮らしていくかもしれない。闇に生きる妖怪たちの曖昧な幻の世界から、外へ出ていかなければならないのだ。そこには不安と、そして期待がある。彼ら自身にも、伊丹にも。けれど伊丹は彼の経験を持って、教え子たちが人間に触れることを喜ばしいことと思う。
「伊丹先生ー!」
下の方から呼ばれて、伊丹は目を瞬いた。
「一緒に写真撮ろう!」
「おー、今行く!」
手を振る生徒に返すと、身を翻してすぐに教室を出た。今の子供たちは、人間の文化を好んで取り入れる。この様子なら、あまり心配は必要ないだろう。
妖怪と人間が、互いを意識せず、けれどひっそりと共に在れるような世界になればいいと、伊丹は思った。そのために、道を拓いてくれた人間がいて、妖怪がいる。人間に紛れて暮らしながらも、時には妖怪に手を貸してくれるものもいる。一方で、伊丹のように妖怪として暮らしながらも、人間のことを知り、伝えていくものもいる。道は、無限に広がっているのだ。
――三月某日。今日は、まぼろし学園の卒業式である。