妖怪の神様
「号外、号外!」
薄暗くなり始めた通りを歩いていると、頭上から威勢のいい声が降ってきた。
「烏天狗の瓦版だよ! 持ってけ泥棒!」
「なんだ、騒々しい……」
持ってけと言いながら空からばらまくものだから、視界を遮って歩きにくいことこの上ない。言われずとも目につくというものだ。それに、人の視界を遮るのは自分の専売特許と思っていただけに、余計むかっとした。
しかし、号外と打たれているからには緊急の事件なのだろうし、読んでおいても損はないだろう。烏天狗は一枚でも多くまき散らしたいだけのようだし。機嫌を直して、まだ宙を舞っている一枚を掴み取り、視線を落とす。まじまじと文字を追う。
「何々…………訃報?」
片面刷りの号外は、四分の一ほどに老人の似顔絵が描かれていて、残りは見出しと細かい文字が書かれている。ひっくり返してみても、裏には何もない。表へ返して、見出しに続く名前を見て首を傾げる。知っているような、知らないような、そんな名前だ。どこかで見たか聞いたのだろうが、どこで見聞きしたのだったかさっぱり思い出せない。物覚えは悪くない方だと思うのだが。
ひとまず、記事を読む。
――人間界で妖怪の第一人者といわれていた氏が、霜月晦日(みそか)の早朝に亡くなっていたことがわかった。人間界においても功績を評価された氏であったが、我々妖界の存在を人間界に知らしめるという功績で、広く妖界にも知られていた。氏は人間であったが、妖怪に強く関心を持ち、かねてより、目撃談や氏の想像を巧みに組み合わせて数多くの妖怪の姿を描いた。没年九十三歳。人間の中では往生とされる。
「烏天狗の号外、いらんかね!」
頭上の声は遠くへ行ったが、それでもよく聞こえる。周りの妖怪たちも足を止めて、みな同じ紙片を手に立ち止まっている。ざわついているから、みなにとっても寝耳に水の話だろう。読み終わった号外を地面に落とすと、すぐに同じように地面に張り付いているものと一緒になって、どれが自分の落としたものだかわからなくなった。手を離れて舞い落ちる紙に既視感を覚えて、目を細める。
妖怪瓦版が人間についての号外を出すなど、いったい何百年ぶりのことであろうか。
役小角(えんのおづの)や安倍晴明は、自身に覚えはなくとも、今でも語り継がれているほどだ。一方で記憶に新しいのは鳥山石燕(とりやませきえん)とかいう画家だった。人物の紹介内容から見て、今回の人間も石燕のような文化的人間らしい。しかし詳細な情報を得ても、いまいちぴんと来ない。ここしばらく人間界へ行っていないからかもしれない。人間はすぐに死んでしまうくせに、このところ進歩めまぐるしく、百年くらいにいっぺん覗くんでもついていけないくらいなのだ。気が付いたらいなくなってしまうような存在を、記憶に留めておく方が難しいだろう。
しかし、喉元まで出かかっているような気がするのに、どうも出てこない。この名前は、確かに知っていると思うのだが。
「伊丹(いたみ)」
そう思いながら首をひねっていると、今度は、烏天狗より幾許か低いところから声が降ってきた。
「ん? ……ああ、塗里(ぬり)か」
「読んだか?」
「号外だろ。あんだけ騒がれちゃ読むさ」
振り向くと、顔の平たいでかい男が立っていた。馴染みのある相手だとわかったので名前を呼び返すと、塗里は足元に散らばる瓦版に目を落とした。塗里の手には、まだきちんと号外が握られている。几帳面で律儀な男だから、しわ一つついていない。
塗里は目を伏せた。おや、と思う。塗里は普段から表情が変わりにくい、いわば仏頂面の男だ。その彼が、見間違いでなければ――どこか悲しげな表情を浮かべている。
「おれは、人間が死んで初めて悲しいと思った」
「悲しい? 何でまた」
「何でって……伊丹、この名前に聞き覚えないのか?」
「……あると思うんだが、思い出せないんだ」
返事を聞くと、はあ、と呆れたように塗里がため息を吐いた。この男は今回の人物が何者であるかよく知っているようだ。態度は鼻につくものがあったけれど、ちょうどいい。
「もったいぶらずに教えろよ」
「本当にわからないのか?」
「しつこいぞ」
「……おれもお前も、この人のおかげで名を知られるようになったじゃないか」
「え?」
思わず聞き返すと、塗里は持っていた瓦版を広げて見せた。まじまじと見つめる。
「これ、似顔絵似てるか?」
「……いや、あんまり。でも、左腕がないのは本当だ」
「え? ああ、ほんとだ」
塗里の言葉に似顔絵を見直すと、確かに左肩から先の服の袖がだらりとぶら下がっている。妖怪であれば、腕がなかったり多かったりするのもままあるが、人間にしては滅多にない。事故か何かでなくしたのか、元から持っていないのか。それでも気にした様子はなく、愉快そうな人間の笑みを見て、不意に頭の中で何かが繋がっていく。
人間でありながら、妖怪を描いた人物。
人間でありながら、妖怪を信じた人物。
人間でありながら、妖怪を愛した人物。
「――――あ」
ようやくわかった。なぜ今までわからなかったのかと思うほど、しっくりとくる。この人間のことを、俺も塗里もよく知っているはずじゃないか。……そうだ、間違いない。この人間のおかげで俺は、俺たちは、人間界に知られるようになったのだ。そう考えれば号外に記されている文章にもすべて得心がいく。まったくその通りだ。この人間がいなければ、俺たちは今とまったく異なる存在だっただろう。
「そうか……人間の寿命は短いんだなあ。百年も生きれねえのか」
「まあ、人間にしては長かったほうだ」
「そうかもしれねえけどさ。……こりゃ確かに、悲しいかもしらん」
塗里曰くあまり似ていないという似顔絵の人物は、眼鏡の奥で笑っていた。深い皺の奥に、ほとんど目が隠れている。外国との戦争で左腕を失ったというこの人間は、右腕一本でも多くの妖怪を描いた。もはやそれは数え切れないほどに。その恩恵に授かった代表が、俺と塗里だ。ほかにも世話になったやつらはいるが、俺たち二人の場合は特に計り知れない。
黄昏時に、通りを埋める影とざわめきが次第に大きくなっていく。
「こっちでこの騒ぎってことは、人間界はもっとすごいんじゃねえのか?」
「だろうな」
「……なあ、塗里。これ、もらっていいか?」
「別にかまわないが……」
「それじゃ俺は行ってくる」
「行く? どこに?」
塗里にもらった瓦版を大切に懐へしまいこんで、沈みゆく夕日を眩しく見る。本来ならあの夕日が沈んでから動き出すのだが、今回はちんたらしていられない。大丈夫だ。薄闇が迫るこれからは、俺たちの時間。
問いかけられて足を止めたものの、背を向けたまま返答に悩む。答えは決まっていた。けれど、何と言うべきか、何というのが正しいかわからなかった。悩み、考えて、ようやく一つの言葉に思い至ると、塗里を振り返る。
「ちょっと、追悼をしに」
ジリリと鳴る古めかしい電話のベルに顔を上げた。時計を見ると、長いこと夢中になって絵を描いていたことがわかる。ちょうどいいから、一息吐こうと筆を置いた。肩を回して首を鳴らすと、まだ鳴り続けている受話器を取った。取り次ぎ用ではないこちらの番号に電話がかかってくるのは珍しい。
「……もしもし」
「おお、出た!」
ずっと絵筆を握っていたせいかすっかり強張っている右手を握ったり開いたりしてほぐしながら常套句を口にすると、少し遠い電話の向こうで聞いた事のあるような声が聞こえた。誰何(すいか)を問う前に、持ち前の嫌みが口を突く。
「出なくて良かったんなら、今すぐ切るが?」
「いやいや、出てくれてよかった! お前は気まぐれだからなあ、方相氏(ほうそうし)」
「気まぐれで切りたいところだが」
「そ、それはちょっと待ってくれ」
欠伸を噛み殺して、描きかけの絵を眺めながら声から記憶を手繰る。親しげな様子といい聞き覚えのある声といい、知っている相手に違いない。というか、この番号を知っているのだから、何かしら関わりのある相手なことは間違いない。電話帳にはもちろん載せていないし、滅多なことでは教えない。そう、少なくともただの人間には教えないのだ。
しかし電話など滅多にしないものだから、記憶を手繰るだけでは、誰だかさっぱりわからない。電話を引いてからの記憶だけではなく、かれこれ一千年近い記憶を辿るとなれば、無理からぬことだろう。
「で、貴様は誰だ」
「また忘れてやがる。伊丹だよ、一反木綿の」
「…………」
「おい」
「知らんこともない名前だ」
「……お前って、ほんと腹立つ性格してるよなあ。言われねえ?」
「知らん」
受話器の向こうで伊丹がため息を吐いた。名前を聞いておぼろげに思い出したが、記憶が確かなら、こいつと会ったのは百年も前のことなのだから仕方がない。人間界で生活していると色んな妖怪や人間と出会うから、少し会わないとすぐに記憶の隅に追いやられてしまうのだ。しかしそれを言うと、人間並みの記憶力になったと言っているようなものになって癪だから止めた。元より、興味のないことや気にかけないことは片端から忘れていっている。伊丹とは百年ほど前から会ってはいないが、電話ならば二、三十年に一度くらいはしている。だからかろうじて、記憶に留まっていたのだろう。たいした用事もないのに、わざわざ電話してくるのは、この伊丹くらいだ。次第に思い出してきた。
「それより何の用だ。お前のことを思い出していたら時間を無駄にしていることに気付き始めたんで、早く済ませてほしいんだが」
「よくそれで人間界生きていけるな」
「貴様よりはましでな。で、なんだ。本当に用がないなら切るぞ」
「いや、用ならある。ちょっと頼みがあるんだ」
「……頼み?」
伊丹の言葉に眉を寄せる。面倒事の予感しかしない。残念ながら、この電話は半ばそのために置いてあるといっても過言ではないのだが。
ギシリと椅子に腰かけて、すっかり冷めたコーヒーを飲む。部屋にこもる前に淹れさせたものだ。とても飲めたものではないから、あとで淹れなおさせよう。黙って続きを促すと、電話の先の伊丹は続ける。
「人間界に行きたいんだけど、服がわかんねえから。最近人間界で暮らしてるお前に手伝ってもらおうかと――」
「面倒だ。断る」
「おいおいおい!」
「煩い。それだけなら切るぞ」
「まあ落ち着けって! 続きを聞けよ」
「……手短にしろ」
何百年も前から「短気だな」と言われ続けているうえ、ここ二百年ほどはずっと人間界で暮らしているから、多少は自制というものを覚えた。随分丸くなったものだと思うが、そうでもしなければこの世界はやりにくいのだから仕方がない。時代や人は変わるものだ。それはもう、ずっと前から承知しているはずのこと。
――相槌も打たずに聞いていた伊丹の話の要点を拾うと、単純明快なことであった。
「つまり、百年前のセンスしかないから何とかしてくれと言いたいわけか」
「せんす? まあ、そういうことだ。さすがに時代遅れ過ぎたらまずいだろ。あからさまに浮いてたら、怪しまれるし」
「……貴様たちにも、人間の情報がわかるようにするべきだな」
別に、伊丹たち妖怪が百年前の行き遅れにもほどがある格好で街をうろつこうが関係のない話なのだが、そうなるだろうという可能性を知ったうえで野放しにしたというのは、自分のプライドが許さない。放っておけば、着物にカンカン帽をかぶって行きかねない奴だ。許容できない。
やはり面倒事だ。最初から有無を言わさず電話を切るんだったなと思いながら、ため息を吐く。
「……いつだ?」
「えっ、ありがとう助かる」
「質問に答えろ。ぶった斬るぞ」
「あ、できればすぐにでも。一刻したら行くから」
「馬鹿。十分で来い」
「え? じゅっぷんって何刻?」
「煩い」
ガチャン、といささか乱暴に受話器を下ろす。とんだ時代錯誤妖怪だ。時間の数え方まで百年前とは、頭が痛くてものも言えない。人間界で妖怪の存在が認知されるようになってきているのだから、妖怪側ももっと人間界のことを知る必要があるだろう。妖怪たちがこれからも、人とともに、闇夜に生きていくつもりならば。その道を切り拓いてくれた存在は、妖怪にも、人間にもいるのだから。
伊丹が十分以内に来なかったら何が何でも追い返してやろうと思いながら、コーヒーカップを手にとって部屋を出た。その直後、玄関のほうから「先生、お客様ですよ!」と声が聞こえてため息を吐いた。
駅の改札に切符を通して出ると、途端に広がる建物の群れと雑踏に圧倒された。人の波に流されて、駅の構内から吐き出される。首筋を撫でる風が冷たい。
すでに夜の帳が下りて、月も見えない暗闇の時間帯――そのはずだが、どうにも灯りが多くて目に眩しい。高い建物は上から下まで、窓から明かりがもれているし、路地も看板が色とりどりに明滅している。これではもはや昼日中と変わりないではないか。これが今の人間界かと思うと、一抹の寂しさを覚えた。
方相氏に貸してもらった服――コートというらしい――の襟を立てて首を覆う。明るいから勘違いしてしまいそうだが、今はもう夜なのだ。本来は俺たち妖怪が動き出しているはずの時間でもある。しかしここ数十年でわざわざ人間界で人間を驚かそうという妖怪は減った。この明るさも関係しているだろうが、人間たちが俺たちをまやかしとか気のせいとか思うようになったのが大きな要因だろう。脅かし甲斐のない人間なんて、考えるだけでも嫌な気分になる。けれどそんな要因をものともせず、俺たち妖怪の存在を広く世に知らしめてくれたのが件の人間だった。
今や人間たちにとって、妖怪はまやかしだった。けれどあの人間の手に描かれたり、言葉にされたりした妖怪たちは、不思議と人間たちも受け入れた。だから、俺がここにいるのだ。
――一杯ひっかけて帰ろうぜ。
――いいねえ。いつもんとこ行くか。
――ごめんごめん、待たせた?
――平気だよ。寒いから、早くお店に行こう。
建物のそばで足を止め、壁に寄りかかって耳を澄ましていると、色々な会話が聞こえてくる。百年前の人間界ではどんな話が聞こえていたのか思い出せないほど、次から次に飛び込んでくる言葉が鼓膜を揺らす。いっそ多すぎるほどの情報量にくらくらしながら、なんとか耳を慣らしていく。一応、人間たちも家へ帰る時間ではあるらしい。ただ、今の時代ではすぐに家に帰らずとも行ける場所がたくさんあるのだ。百年か二百年前は、提灯がなければ一寸先も闇に覆われて歩けなかったというのに、本当に変わってしまった。
コートのポケットに突っ込んでいた号外を取り出し、広げてみる。もうかなりくしゃくしゃになってしまっていて、似顔絵も文字も消えかけている。訃報と書かれた大きな見出しだけが、いまだに強く主張している。
妖界はもちろん、人間界でもその功績を讃えられた人物だったと聞いている。だから人間界に来れば、妖界とは比べ物にならないほど騒ぎになっていると思っていた。そうでないにせよ、もう少し故人を偲ぶ雰囲気があるかと思っていたのだが、当てが外れてしまった。想像以上に様変わりしていた忙しない今の人間界なら、この話題が聞こえなくとも仕方がないことなのかもしれない。もっと人間のことを勉強しておけと言った方相氏の言葉にも、頷けてしまう。
「……はあ」
ため息を吐く。人間界から黄昏や薄闇が追放されて、一度は忘れ去られるかと危惧したときに覚えた寂しさと似たような感情が胸中で渦巻いている。人の世は移ろいやすく、諸行無常であると誰かが言っていた。目を伏せて夜風を感じる。
――きっと、今度こそ妖怪になったんだ。
――向こうでも元気にやってるといいね。
不意に聞こえた会話にはっと顔を上げた。胸がざわつく。あの人の話をしているのではないだろうか。それとも、ただの勘違いだろうか。
辺りを見回してみるが、忙しなく歩く人々が目に映るばかりで会話の中心を特定できない。先ほどとは別の方向から声が聞こえてきて、今度はそちらを振り返る。
――でも、心にぽっかり穴が開いたみたいだ。
――わかるなあ。子供のころ、よく見てたよ。
雑踏からぽつりぽつりと聞こえる会話が同じ内容に揃っていく。関係ない会話を聞いていた人が、つられてその話題を口にする。そうした人が増えているのだ。いつしか耳に入る会話は、どこを向いても同じものになっていた。そのすべてがじわじわと染み込んでくる。
――そのうち図鑑にも載るぜ、妖怪として。
――ありうるところが怖いな、あの人は。
――しかしやっぱり、惜しい人を亡くしたなぁ。
ぶわりと涙が浮かんだ。止める術を持たない涙は、通行人に奇異の目で見られる。けれど勝手に出てくるものはどうしようもなかった。まさか自分がただ一人の人間の死に涙するとは思っていなかったし、その人間の存在が人々にこれほどまで染み付いていたとも思っていなかったのだ。あの人の面影はどこにもないのだと思った。けれど、その面影はどこにでもあった。それが嬉しくて、けれどやっぱり寂しくて、手に持っていた瓦版を顔に押し当てて、声を殺して涙する。殺しきれなかった嗚咽が喉をひくつかせる。
雑踏からは、もう、何も聞こえない。意味のあるようなないような、そんな音声が耳を通り抜けていく。先程までは確かに人々の意識にいたのに、気が付けば消えているなんて、まるで本当に、妖怪みたいだ。
一度でいいから、直接礼を言っておくんだったと思った。
ぼんやりと白い朝焼けの中、欠伸を噛みながら帰ると、意外にも通りは賑やかだった。一日中忙しない今の人間界ならともかく、闇に息づく妖怪が、太陽の昇る時刻に寝付こうともせず賑やかにしていることは滅多にない。起きていられないというわけではないが、やはり妖怪が昼間に出るというわけにもいかぬのでその時間帯はひっそりと息を潜めていることが多いのだ。
「あ、おい」
「ん? ああ、帰ったのか、伊丹」
「こりゃ何事だ。珍しいこともあるもんじゃねえか」
裏道から通りに合流すると、どうやら道の真ん中に集まっているとわかった。その輪から外れて、高い背を活かして遠目に様子を伺っている塗里に声をかけると、重そうな瞼をなんとか押し上げながらこちらを振り返った。どうやら野次馬の一人らしい。塗里自身はそういう性格ではないから、意外に思う。
「おれも直接は見ていないんだが、どうやらすごい人間が来ているらしい」
「人間?」
ここは地獄でもないのに、なぜ人間が。そう訊ねようとするより先に、人垣のほうからわっと歓声が聞こえた。明け方まで人間界にいて、方相氏に服を返して戻ってきた眠たい頭にはなかなか響く。眉を寄せてしかめ面をすると、塗里の止める声も無視してずかずかと騒ぎの中心に向かう。
「ちょいと、通してくれ」
時たまあるのだ。人間が、妖界に紛れ込んでしまうことが。それを面白がった妖怪たちが騒ぎ立てているのだろうと思いながら、見物客たちをかき分け進む。首根っこを捕まえてでも人間界に追い返してやろうと鼻息荒く通りの真ん中に躍り出た。
「おい、人間様が俺たちの世界に何のよ――」
背中を丸めて、化け狐の差し出す木の葉に何事かを書きつけていた人間が俺の言葉に振り返る。しわだらけで優しそうな小さな目は、キラリと光る眼鏡の奥。筆を持つ右手とは対象に、だらりと下がる左服の袖。息をするのも忘れて、言葉を失う。
「冥途から、オイラたちの取材に来たんだとよ! へへ、サインもらっちまった」
化けるのも忘れて嬉しそうに尻尾を振る化け狐をちらりと見やって、すぐにまた人間へ視線を戻す。何度見ても、何度瞬きをしても、そこにいる人間の姿が変わることはなかった。昨日の日暮れ前に号外に刷られていたものより穏やかな顔だ。やはりあの似顔絵を描いた絵師は下手くそに違いない。まるで、似ていないじゃないか。
「君は、なんていう名前なんだい?」
人間がにっこりと笑って口を開いた。胸に支えていた何かを、息と共に吐きだす。すると一緒に涙がぽろぽろと零れてきた。寂しいのでも、悲しいのでもない。
「俺、俺は…………ッ」
この人に会えて。
この人に言葉を贈れて。
それが何よりも嬉しいのだ。
「一反木綿の伊丹だ。……今までありがとな、俺たちの神様」
俺の言葉に、人間はしわを深くした。