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潮風の記憶

 

 改札を抜けて駅舎を出ると、ノスタルジックな橙色に照らされた町が広がっていた。潮風が頬を撫でる。初めて訪れるはずのその光景に、湯来野清花(ゆきのさやか)はどこか懐かしさを覚えた。くるり、と振り返る。

 

「先生は、来たことがあるんでしたっけ? この綾月町(あやづきちょう)に……って先生、どこ行くんですか! ホテルはそっちじゃないですよー……と」

 

 清花の言葉が尻すぼみに消えていく。二人分の旅行鞄を抱えた彼女は、既に遠ざかっていく、金髪が眩しい背中を見つめて小さなため息をついた。もう聞こえないだろうし、聞こえていても振り返らないだろうと思った。男が自由なのはいつものことだ。清花は、小さなポシェットから四つ折りにされた地図を取り出した。ここへ来ると聞いたときに、インターネットで調べて、印刷しておいたものだ。

 

「えっと、今日のお宿は……こっちか」

 

 男、方相(かたあい)宇治が去って行ったのと別の方向を向く。事前に、宇治にもコピーした地図を渡してある。彼が迷ったことは、少なくとも清花が知る限りでは一度もないから、心配せずとも夜になれば宿へ来るだろう。取り出した地図をもう一度確認すると、清花はそれをポシェットに仕舞い込んで歩き出した。二人分の荷物は、やはり少し、重い。

 

 

 

 

 

 夕飯前の買い出しの時間に近いからか、道行く人は少なくない。帰宅途中の学生の姿もある。世間話や噂話に花を咲かせている人々だが、宇治が横を通り抜けると途端に静まり返った。町で見かけることのない、長い金髪を風になびかせた上品な格好の男なのだ。息を飲み、振り返ってしまうのも仕方がない。そして彼が通り過ぎると、顔を寄せて、小さな声で噂した。

 当人はといえば、いつも通り、三つ揃いに仕立てられた上品なスーツをまとい、布に包まれたキャンバスとイーゼルを脇に抱えていた。反対の手には画材が収められている鞄を提げている。泊まりの荷物は、多くないからと清花に預けてある。

 

「……道を尋ねたいのだが」

 

 ある交差点で足を止めた宇治は、辺りを見回してから、近くにいた主婦に声をかけた。三人ほど集まってこそこそと彼に視線をくれていた主婦たちは、宇治が話しかけているのが自分たちだとわかるとにわかに喜色ばむ。

 

「どちらへ行くんですか?」

「この町の神社だ。確かあったと記憶しているのだが」

「神社?」

「あー、あれじゃないかしら。綾糸(あやいと)神社」

「あ、あそこね~!」

 

 宇治の言葉に顔を見合わせた主婦の一人が神社の名前を挙げると、二人は手を打った。どうやら、思い当たるところがあるらしい。勝手に話を盛り上げそうな彼女たちを、宇治が静かに制する。

 

「……それで、場所は?」

「あら。あらあら、そうだったわねえ。どこだったかしら?」

「あっちじゃなかった?」

「近くはないはずだけど……」

 

 存在は知っていてもあまり行かないからか、ぱっと場所を挙げられない主婦たちに宇治の苛立ちが小さく募っていく。知らないなら知らないで構わないのだが、それならそうと言ってほしい。時間を無駄にするつもりはないのだ。このまま黙って立ち去ろうかと後ろ足を引いたとき、一人が「そうだ!」と顔を宇治に向けた。ぴたりと足を止める。

 

「思い出したわ。ほら、林のほうよ」

「あー! 住宅街抜けたところ?」

「そうそう。ここからだとちょっと歩くけど……」

「林……そうか。助かった」

 

 会釈して主婦たちに背を向けると、宇治は足早に立ち去った。一秒でも留まっていると、話し好きそうな彼女たちに捕まりかねないと思ったのだ。主婦たちはしばらく宇治の背中を物珍しく見送っていたが、やがて井戸端会議に戻った。

 歩きながら、記憶を辿る。駅前で清花と別れる前に眺めた町の案内地図で、林を見かけたような気がする。それならば神社の場所も確認しておけばよかったのだが、後の祭りだ。長いこと見ていたら、清花に捕まると思って急いだからか。もう少し気を長くするべきなのだろうが、この辺りは生来のもので、変えるのがいささか難しい。

 林までは少々かかりそうだが、今から清花が先に行っているホテルへ行くのも、今回の目的地を先に見るのも、宇治としては居心地が悪かった。どこか町を訪れる際、彼ははじめに神社へ行くことを心がけている。もちろん神社がない町もあるし、その暇がない場合も多い。それでも、可能な限りは神社を探した。

 

「……いるはずないんだろうが」

 

 ごく小さな呟きは、すれ違いざま彼に見惚れる人には聞こえていない。沈みゆく夕日は、先程よりも輝きを増している。きつく眉を寄せると、宇治は足を速めた。

 脇に抱えたイーゼルとキャンバスを何度か抱え直しながらしばらく行くと、彼はようやく主婦たちの言っていた林を見つけた。見えていたと言えば見えていたのだが、そこに神社があるという確証は得られていなかった。しかし、林の中にわずかに鳥居が見えた。赤さを増した夕日は、明らかに傾きを深くして時の経過を告げている。

 結構かかったな、と宇治は頭の隅に思う。ほとんど駆け足に近い早足で来たのだが、すっかり日が暮れてしまった。

 境内へと続く石段を前に、宇治は眉間のしわを緩めてため息をついた。大きなものを抱えてのぼるにはいささか骨が折れるのだが、四の五の言っていられない。それに何も、宇治に力がないというわけではないのだ。彼は単純に、両手がふさがっていることに顔を曇らせていた。

 それでも難なく石段をのぼりきると、土汚れた石畳が本殿まで続いていた。まめに手入れされている風ではなさそうだ。町から少し離れ、林に囲まれた場所。宇治のほかに人影はない。傾いた夕日は木々に遮られて届かない。薄暗い境内を、彼はぐるりと見回した。

 神域独特の澄んだ空気は、宇治にとって――否、人ではない方相氏である彼にとって、好ましいものだ。普通の妖怪は神聖なものを受け付けないか苦手とするものだが、本来はその妖怪を、人のために斬り、祓う方相氏という存在である彼のこと。人に紛れて暮らすことにも慣れてきたが、街のよどんだ空気は慣れるものではない。

 深呼吸すると、宇治は賽銭箱の前に足を進めた。けれど参拝する気配はまるでない。硬い表情で空を見つめたまま、しばらく黙って立っていた。冷たい風が吹く。宇治の金色の髪が大きく広がった。

 

「……一度来たことがある場所ならとも思ったが、今回も外れのようだな」

 

 再び境内を見回すと、彼は綾糸神社を後にした。石段を下りてから一度だけ振り返り、何かを見据えるように目を細める。藍色に染まる空に向けて、宇治は足早に歩き出した。

 

 

 

 

「宇治、寄りたいところがあるんだけど……」

「お前一人で行け」

「神社だから、君も好きだと思うけど?」

「…………」

「さ、行こうか」

 

 かたわらに立つ相棒から返事がないこと、無言のままでも歩き出さないことから、御鳥朗士(みどりろうし)は方相宇治もついてくると判断した。歩き出した朗士は、癖のある長い黒髪に何度か手櫛を入れて町並みを見回す。

 

「落ち着いていて、素敵な町だね。ねえ、宇治」

「知らん。俺に話を振るな」

 

 チッ、と舌打ちした宇治は、上品な三つ揃いのスーツの格好に似合わず、長い金髪を乱暴にかき乱した。けれどぞんざいな返事を受けているにも関わらず、朗士は楽しそうな笑みを浮かべている。それが宇治の癇に障ったようで、彼はくるりと踵を返した。

 彼は「海を見る」と言い残し、呆気にとられる朗士を置き去りにして颯爽と立ち去った。追いかける暇もない。

 

「……宇治、海好きだったんだ」

 

 残された朗士は意外そうに呟くと、笑みを深くして宇治に背を向けた。水辺にろくな思い出がない、と愚痴られたのはいつのことだったか。彼が素直に話してくれることは、まだないらしい。

 軒を連ねる小さな商店を眺めながら、朗士は、綾月と呼ばれる町ののどかな空気を堪能する。通りがかった商店に人影を見つけて、朗士は声をかけた。

 

「あの、すみません」

「ん?」

「神社に行きたいんですけど、どこにありますか?」

「ああ、綾糸神社ね。町の外れになるんだが、あっちに見える林の近くだ」

「そうですか。ありがとうございます」

 

 朗士は笑顔で頭を下げると、軽やかな足取りで綾糸神社を目指した。

 朗士は、神社が好きだ。好きだというより、落ち着けると言ったほうが正確かもしれない。神社を、神を、信じ敬う人々の心が神聖な地に宿り、生まれたのが、おとろしという妖怪であり、朗士であった。だから普通の妖怪には居心地の悪い神社も、彼にとっては居心地のいい場所なのだ。

 連なる軒がまばらになり、住居と畑が視界に広がるようになってからも、しばらく歩いた。教えられた林は随分前から見えているが、朗士がのんびりと歩いているせいでちっとも近付かない。それでも彼は気にしなかったし、むしろ楽しんですらいた。

 綾糸神社の鳥居が見えてくると、朗士は少しだけ足を速めた。近付いてくるにつれ、気分が清々しくなる。境内へ続く石段を前に、彼はぴたりと足を止めた。

 

「……やっぱり、宇治も連れてくればよかったな」

 

 機嫌を損ねて行先を違えてしまった相棒を思い、ぽつりと呟く。朗士と同じように、宇治は方相氏と呼ばれる妖怪でありながら、神社のように神聖な地を好む。この町を出る前にもう一度彼を誘って訪れようと思いながら、朗士は石段に足をかけた。

 

 

 

 

 ホテルの小さなレストランで食後のコーヒーを飲みながら、宇治は目の前でヨーグルトに手を付けた清花に言い放った。

 

「海を見る」

 

 清花はぽかんとした顔を浮かべてから、なおも表情を変えない宇治を見つめた。

 

「海って……先生、海岸に行くってことですか? 確かにこの町は海がきれいみたいですけど……」

「馬鹿者。お前は町の地図もろくに見ていないのか」

「えっ」

 

 清花はスプーンを置くと、慌ててポシェットから綾月町の地図を取り出した。昨日宇治と別れてホテルにチェックインしたとき、受付でもらった、観光向けのものだ。

 水族館やビーチもある海岸沿いはすぐに見つけられた。そこから素早く全体に目を走らせ、宇治の言葉の真意を探ろうとする。コーヒーを飲み終えた宇治が席を立った。

 

「先生、どこですか?」

「……丘」

 

 どうしてもわからずに清花が訊ねると、宇治は一言だけ言い残して、そのまま部屋に戻ってしまった。清花はすぐに視線を地図に落とすと、彼の言葉が意味したものを見つける。

 島見(しまみ)の丘。

 小さく拓けた空間にはそう書かれており、そばには花のイラストも添えられている。丘の頂上には名物の花時計があるらしい。それは、清花の興味を誘ったが、おそらく宇治の琴線には触れていないだろう。

 

「丘って……先生、そこから海を見るってことですか?」

 

 清花が振り返ったとき、宇治は既にエレベーターに乗り込んでいた。清花は慌てて地図を畳むと席を立ち、宇治の後を追った。なかなか降りてこないエレベーターに苛立ちながら、清花は急いで部屋に駆け込む。早く支度をしなくては、宇治に置いて行かれてしまう。彼はそういう男だ。

 騒がしく支度を終えた清花は、勢いのまま部屋を飛び出した。すると隣の部屋の扉もちょうど開くところだったらしく、彼女は間に合ったことに安堵の息をはく。

 

「花時計のある丘から海を見るなんて、ロマンチックですね、先生」

 

 キャンバスとイーゼル、それに画材の入った鞄を持った宇治は、返事の代わりに小さく鼻を鳴らして、ふいと顔を背けた。何も言わない以上、ついて行っても問題ないのだと清花は判断する。宇治は言葉が少ないが、その分意思表示もはっきりしているのだ。駄目なときは、言葉にして駄目だと言う。まるで配慮などない歩調の宇治を追うように、清花は足を速めた。

 

 

 

「うわー! すごい、一望できますよ、先生!」

「言われなくとも、見ればわかる」

 

 休暇時期でもない、普通の平日である。宇治と清花のほかに、丘の上に人影はない。

 空は青く冴えわたり、眼下には綾月町を一望する。ところどころには高い建物もあるが、島見の丘から見渡せる程度だ。路線を走る電車を見つけた清花が、嬉しそうに宇治を振り返る。

 

「先生、あれ、私たちが乗ってきた――」

 

 しかし彼は、清花のほうを見ずにイーゼルを立てていた。いつもの上品なスーツではなく、シャツの袖をまくりあげて、絵の具で汚れた松葉色のエプロンをしている。黙々と絵筆を取り出し、準備をする宇治に、清花はそれ以上話しかけるのをやめた。普段から話しかけるごとにあしらわれているが、仕事中は良くて無視、悪いことになると相当叱られる。何も邪魔をしたいわけではないので、口を噤んだ。

 宇治は、清治(きよはる)という名で絵描きをしている。綾月町へ訪れたのは、その彼が「絵を描きに行く」と言い出したためだ。彼が行くと言って、その上で来るなと言わないとき、清花は供をする。

 

「……不思議な町」

 

 海に向かって立てたキャンバスの前に座った宇治は、すっかり自分の世界に没入している。宇治の集中力はすごい。アトリエにこもっているとき、夕方になって声をかけても出てこないことなどざらにある。清花は彼を一瞥してから、海を眺めた。

 空の青さを返して輝く海には、丘の由来ともなった小島が見える。海岸沿いには大きくないものの水族館があり、時期になれば潮干狩りでも賑わうという。住宅街に見える小さな空き地や、丘の近くにある学校の校舎。他にも遊園地などが見えた。

 人々の暮らす穏やかな町かと思えば、アミューズメント的な施設や観光スポットもある。しかし、観光客で賑わっているほかの地方都市とはどこか雰囲気が異なる。不思議な町、という清花の感想ももっともだった。

 

「清治先生。私、ちょっとぶらついてきますね……って、聞こえてないか」

 

 キャンバスの上を滑る宇治の手は止まることがない。キャンバスを立てた瞬間、既に描きたい絵は生まれているのだと彼は言う。迷わず色を置く宇治に声をかけた清花は、いつも通りの反応に笑みを浮かべると丘を下った。

 

 

 

 

「海、久しぶりだね」

「お前と会ってから、水辺にはろくな思い出がない」

「あ、あはは……」

 

 佇む後ろ姿に声をかけると、振り返った宇治は厳しい目で朗士を見据えた。鋭い視線から逃れるように、朗士は宇治の隣に並ぶ。彼と水辺の話題になると、必ずと言っていいほどこれだ。けれど海のある町に行くと言ったにもかかわらず、こうしてついてきてくれた。

 眼下に広がるのは、吸い込まれそうなほどの青さを湛える海、通ったばかりの鉄道、軒を連ねる建物……ここは、それらを見下ろす小さな丘だ。こうして見渡せるほどの高さがあるにも関わらず、町の人は丘を持て余している。

 

「それより、参拝が終わったのなら行くぞ」

「え? もうちょっとゆっくりして行こうよ」

「くだらん。用は済んだのだろう」

 

 宇治は朗士の言葉を一蹴すると、今まで眺めていた海に背を向けた。

 綾糸神社での参拝を終えた朗士は、「海を見る」という言葉を頼りに宇治を探した。海へ足を向けかけて丘の存在に気が付いたのは、短い期間でも相棒を務めていたからであろう。案の定、姿を見つけて声をかけたが、彼は驚いた素振りもなかった。

 

「もったいないなあ。こんなに綺麗な風景を、こんなに綺麗な町に住んでいる人々が知らないなんて」

「……貴様は何目線なんだ」

「だけど、宇治も思わないかい?」

 

 朗士の問いかけに足を止め、宇治が振り返る。

 

「……人間の営みは、いずれこの景色さえも壊してしまうぞ」

 

 丘まで届く潮風が二人の頬を撫でた。金色に輝く宇治の髪がなびき、癖のある朗士の黒い髪が揺れる。

 

「人が作った風景を、人が壊す。君は、何百年もの間、それを見てきたんだね」

 

 慈しむような朗士の言葉に、宇治は押し黙る。朗士が妖怪として生まれたのは宇治よりもずっと後だ。けれど彼は、その宇治を黙らせてしまうほどの真理を突くことがある。在り方が似ているからだろうか。そう思うけれど、口にはしない。

 

「それは君にとって、悲しいことだったんだろう?」

「……いや」

 

 宇治は朗士のように、海へ目を向けた。どこか眩しげに目を細める宇治の横顔に、朗士は口をつぐむ。

 

「それが、人が生きると言うことだ」

 

 海を見つめたままの宇治が「綺麗だな」と呟く。朗士はただ一言、うんと頷いた。

 

 

 

 

 宇治が描いているであろう海岸沿いを、清花は歩いていた。

清治という絵描きは、描き始めると終わるまで手を止めない。太陽の傾き、雲の流れ、伸びる影。風景ですら刻一刻と移ろうのに、彼は己が定めた瞬間を確かに切り取って記憶し、それをキャンバスに描き出す。彼が切り出す光景は、見る人の心を掴む。清花も心を掴まれたうちの一人である。

 清花は一日、町を歩き回っていた。図書館。公園。小さな喫茶店や古本屋。綾月町は決して大きくない町だが、意外と見所が多い。つい先ほど、丘からも見える水族館も見てきたところだ。まるで退屈しない。

 

「……先生、まだ描いてるのかな」

 

 島見の丘を見上げた清花がぽつりと言う。上から下は見えても、下から上は見えにくい。海岸沿いから宇治の姿を見つけることはできない。自転車に乗った高校生の男女が通り抜ける。遠くなっていく紺色のブレザーを目で追って、清花は再び海へ目をやった。

 昼間よりも涼しくなった潮風に頬を撫でられて、清花は目を閉じる。そろそろ宇治に声をかけに戻らなければならない。いくら頭の中に景色を切り取ることができる彼でも、描き終えるまでその場を動きたがらないのだ。アトリエならば構わないのだが、夜になっても丘の上から動かなかったら笑い話にもならない。

 

「なんてのどかで、美しい町なんだろう」

 

 丘に向かって歩き出した清花は、今日一日見て回った光景を思い返しながら呟いた。初めて訪れるのに、どこか懐かしく感じる不思議な町。宇治がかつて訪れたというこの町へ再び訪れたのも、この雰囲気があってのものであろう。なにせ彼は本来、景色を見なくとも記憶を頼りに描けるのだから。

 清花は深呼吸すると、足取りを軽くした。

 

 

 

 

 

 すっかり日の傾いた丘の上で金の髪を夕日に輝かせる宇治は、清花の想像通り、未だキャンバスの前にいた。もはや、彼の姿そのものが切り取られた絵のようでもある。しばし見とれていたが、我に返って近寄る。

 

「先生、もう夕方ですよ」

 

 返事はない。清花は、無言のまま手を止めない宇治の後ろに立った。そして、息を飲む。

 

「すごい……! なんて綺麗な海……」

 

 様々な青色で描かれた綾月の海は、絵画でありながら眩しいほどの輝きを放っていた。町を切り取る絵。あるいは、生きている絵。そう評するのがふさわしいほど見事だ。しかしよく見ると、置かれている色はほとんど青色のみで、海の他はあまり描かれていない。申し訳程度に、ここから見える建物が描かれている。

 

「先生、ほんとに海を見に来たんですね」

 

 清花が苦笑気味に呟くと、宇治がぴたりと手を止めて振り返った。

 

「明日の夜には発つぞ」

「え、明日ですか?」

 

 言うが早いか、宇治はテキパキと画材を片付け始める。スイッチの切り替えが極端だ。イーゼルと鞄を右に抱えると、左手でキャンバスを担いだ。あっという間に片付けを終えて丘を下る宇治を、清花は慌てて追いかける。宇治が言い出したことは絶対だが、明日の夜に発つとは、いささか急だ。彼は描くのが早いほうではあるが、それと絵の具が乾いて持ち運べるかということとは話が別である。

 

「明日の夜はわかりましたけど、絵はどうするんですか。そのまま持って帰るんですか?」

 

 しかし、清花の問いかけに返事はない。先を行く宇治と清花の距離が開いていく。いつも清花へ配慮しない宇治だが、今日はやけに歩みが早い。

 

「先生ってば」

 

 駆け寄って追いついても、清花が歩みを緩めれば、すぐにまた距離が開く。清花はため息を一つ吐くと、追いかけるのは諦めて自分のペースで歩き出した。どうせ、戻る場所は同じだ。夕日のフィルターに覆われる町を眺めていると、清花は無性に家へ帰りたい気持ちに駆られた。

 

「――湯来野」

 

 風が清花の服をはためかせたとき、宇治が彼女を呼んだ。

 

「さっさとしろ」

 

 彼は少し先の信号で足を止め、清花を振り返っていた。イーゼルを抱え直す宇治に近付けば、信号が青になったタイミングで彼は再び歩き出す。しかし宇治は何度か振り返り、清花がついてきているか確認しながらホテルへの道を歩いた。

 ホテルに着くと、宇治は受付で部屋の鍵を受け取りながら、明日チェックアウトする旨を告げた。ホテルのレストランで夕食をとった後、彼はすぐに部屋へ引っ込んだ。同じように部屋へ戻った清花は、暗く、けれどぼやりと明かりに満ちた夜景を横目に荷物をまとめた。

 

 

 

 

 

 朝のうちにチェックアウトを済ませると、宇治は昨日より描き進められたキャンバスを片手に、再び島見の丘にのぼった。もちろん、泊まりの荷物は清花が預かっている。

 昨日と同じ場所にイーゼルを立てて準備すると、宇治はすぐに筆をとった。昨日は描かれていなかった町並みが増えており、鮮やかな海と相まって町としての立体感が表現されている。

 

「……この町も変わったな」

 

 宇治が以前、綾月町へ訪れた時は眼下を埋め尽くすほどの建物はなかった。駅前にはビルも集まっていたが、少し離れれば家はまばらになり、田んぼや畑が広がっていたことを彼は覚えている。海岸沿いもきちんと整備されていなかったし、海の青さは今よりも遥かに深く鮮やかであった。そして何より、彼がいるこの丘に名前もなければ、人の手が入っている気配もなかった。

 記憶を手繰りながら色をとっていた宇治は、一度手を止めて息を吐いた。

 

「だが……悪くはない」

 

 今はどこにいるのかもわからないかつての相棒に向けて、彼は呟く。口元には薄く笑みを浮かべている。

 宇治は再び筆をとると、いつもの無表情に戻り絵を描き進めた。新しい筆で白い光を描き込んでいく。彼方まで広がる海と、今にも人々の声が聞こえだしそうな町並みはより輝き、命を吹き込まれていく。そこには、命が息づいていた。

 今日も、島見の丘に人影はない。名物の花時計が風に揺れている。

 

「――行くぞ、湯来野」

「え、あ、はい!」

 

 ぴたりと筆を止めた宇治が声をかけると、花時計を見ていた清花は慌てて返事をした。

 昨日のうちに町を見て回ってしまったため、朝に宇治と別れた清花はすぐに丘へ足を運んだ。明らかに描き進んでいるキャンバスを見て、清花は宇治が徹夜したことを察する。朝食の時、いつもよりコーヒーを一杯多く飲んでいたことを思い出した。

 

「もう描けたんですか? 早いですねえ」

「一度見た景色だ。時間をかけすぎたくらいだな」

「さすがです、先生」

 

 清花の感嘆の言葉に一瞥くれると、宇治はまたテキパキと画材を片付けた。思い出したようにキャンバスを裏返してサインを入れると、イーゼルも畳んで担ぎ上げる。

 

「でも先生、この絵、どうするんですか? まだ乾いてないから、包んで帰れないですよね」

 

 完成した絵を見ながら、清花が問う。まじまじと見ながら「きれいだなあ」と感想をこぼしており、それを見る宇治の表情は、明らかに面倒だと語っていた。

 

「……行くぞ」

 

 結局、彼は改めてそれだけ言うと、足早に島見の丘を下って行った。

 

 

 

 

 さらさらと輝く金髪を追って、癖のある黒髪が揺れる。

 朗士が丘へ上がってしばらくは、宇治と黙って海を眺めていた。しかしその宇治は唐突に「帰るぞ」と言い放ち、反論も寄せ付けず丘を下った。

 

「帰りの電車はあるのかい?」

「知らん。だから帰るんだろうが」

 

 宇治はもとより、朗士も綾月駅の時刻表を確認していなかった。ある程度地方へも電車が開通したとはいえ、東京とは違う。一日の本数は限られているのだ。

 宇治の言葉に苦笑すると、朗士は足を速めた。

 

「また来たいねえ、宇治」

 

 隣に立った朗士の言葉に、宇治はちらりと彼を見る。

 

「依頼でもないのに、こんな田舎へか?」

「だって綺麗じゃないか」

「ふん。人間みたいなことを言う」

 

 小さな駅舎が見えてきた。電車は停まっておらず、人影も少ない。むしろ駅の中より、外の方が人は多い。小さな木箱に腰かけて、駅の絵を描いている老人もいる。通り過ぎ様に、宇治はそれを一瞥した。

 

「君も綺麗だって言っていたじゃないか」

「それと、また来たいかは別の話だ」

 

 朗士は返ってきた言葉に閉口する。不満げな表情を浮かべたが、それ以上言葉を重ねることはしなかった。これぐらいが宇治の平常なのだ。

 しかし、朗士が駅の前で足を止めると、宇治もつられて足を止めた。振り返り、眩しげに町を見つめる朗士を、彼は静かな表情で見る。やがて絵を描いている老人の物珍しげな視線が二人に注がれているのを見て取った宇治は、足早に駅舎へ入ってしまった。追いかけるようにして、朗士も駅へ駆け込む。

 

「あ、しまった」

 

 ぽろりとこぼした御鳥の言葉に、時刻表を睨んでいた宇治が視線をくれる。

 

「神社、素敵なところだったから、帰る前に宇治も行ったらどうかなって思ってたんだけど……」

「面倒だ」

「……だよねえ。また来ることがあれば、行ってみてよ」

 

 そう言って朗士が笑うと、宇治は無人の改札を抜けて行った。

 潮風が静かに頬を撫でる。電車が近付いてくる音が聞こえ、朗士も改札を抜けた。

 

 

 

 

 むき出しのキャンバスを担いで歩く宇治を、すれ違う人は足を止めて振り返る。彼の金髪を見る物珍しさでないことは、後ろをついていく清花にもわかった。

 

「清治先生、こっち遠回りですよ? 駅に行くんですよね?」

 

 戸惑う清花の言葉に、やはり返事はない。清花はため息をつくと、自身のものと宇治のものと、旅行鞄を抱え直した。答えてくれないのならば、これ以上問いかけても仕方がない。先に行けとは言われていないから、ついていくこと自体は構わないのだろうが。

 不意に、宇治が一軒の店の前で足を止めた。ショーウィンドウから見える店内は薄暗い。入り口に掲げられている看板を見上げる。

 

「……ギャラリー?」

 

 それを見た清花が首を傾げる。宇治は躊躇せずドアベルを鳴らしながら店内へ入って行った。大きな荷物を抱えている清花は、気になりつつも店先で宇治が出てくるのを待った。

 よくよく覗き込むと、宇治が店主と思しき人物とやりとりしているのが見える。店内はよく見えないが、所狭しと絵が飾られているようだ。清花はほうっと息をつきながら、ショーウィンドウ近くのそれらを眺めた。そして、一つの絵を目に留める。

 それは、古い町並みの描かれている水彩画だった。建物こそ今と異なっているが、書かれている文字や道路などから綾月駅前だとわかる。淡い色使いで描かれた風景画かと思いきや、駅前には二人の人物が描かれていた。一人は袴姿に癖のある黒髪で古い時代を感じさせるが、もう一人は仕立ての良いスーツ姿に長い金髪で現代らしさを感じさせる。昭和初期か、もしくは大正頃であろうかと清花が考え始めた時、宇治が店内から出てきた。左手にキャンバスはない。

 

「あ、先生」

「行くぞ」

「はい……って、もしかしてあの絵、引き取ってもらったんですか?」

「そういうことだ」

「なるほど」

 

 答えながらも早々と歩き出す宇治を追って、清花もギャラリーを後にした。飾られていた絵に後ろ髪を引かれる思いがしたが、置いて行かれるわけにはいかない。

 駅に向かって歩きながら、清花は前方で揺れる金髪をぼんやりと眺めていた。現在時刻は昼を過ぎたところで、高く昇った太陽が宇治の髪を輝かせている。

 

「……先生」

 

 駅が見えてきたところで、清花はあることに気が付いて足を止めた。先程見かけた絵が、どうにも気になっていた。その理由が、ようやくわかったのだ。

 

「前にもここへ来たことがあるって言ってましたよね。いつ来たんですか?」

「……忘れた」

「そんなに前なんですか?」

 

 答えはない。綾月駅の看板の前に立つ宇治の姿は、あの絵と重なった。異なっている点と言えば、駅舎や周囲の様子くらいである。

 

「清治先生って、不思議。私、先生の家族のことも、昔のことも、何にも知らないんですよね」

「俺もお前のことなど知らん」

「先生は聞こうとしないし、話そうとしないじゃないですか」

「興味がないからな」

 

 早くしろ、という宇治の姿が駅の中に消える。清花は思わず来た道を振り返り、戻りそうになった。しかし、思い直して駅へ足を向ける。

 

「先生! また、海の絵描いてください」

 

 駅に飛び込んで、時刻表を確認する宇治に言う。わずかに振り返った宇治が、不機嫌そうに眉を寄せる。

 

「なぜお前の希望を聞かねばならん」

「だって先生、海が好きなんでしょう? いいじゃないですか」

「……図々しさが増してきたな。嫁の貰い手がなくなるわけだ」

「まだそんな歳じゃないです」

「そう言っている間に行き遅れるんだ」

「ひっどーい!」

 

 頬を膨らませる清花を鼻で笑うと、切符を買うため、宇治は窓口へ行ってしまった。荷物とともに残された清花は、まばらに空いた待合所の椅子に荷物と腰を下ろす。宇治の後ろ姿を見ていると、やはりあの絵を思い出す。清花が見た絵は、明らかに現代より古い時代を描いているものだった。そしてそこに描かれていた人物は、宇治によく似た姿かたちをしていた。果たしてあれが本当に宇治であったのかはわからない。けれど、宇治はそのものが絵画の中の存在のようで、こうして駅舎にいるだけでも絵になる。

 

「行くぞ。直に来る」

 

 改札付近に立っている宇治が、清花を呼ぶ。慌てて荷物を抱えて立ち上がり、先に改札を抜ける彼に続く。

 

「また来たいですね、先生」

 

 まもなく電車が到着するというアナウンスの隙間を縫って、清花が宇治に言う。ホームに滑り込んできた電車を真っ直ぐに見つめたまま、宇治が口を開いた。

 

「――綺麗だったろう」

 

 その言葉に一瞬きょとんとした清花は、すぐに満面の笑みを浮かべる。

 

「はいっ!」

 

 大きく頷いた清花の言葉に宇治が口の端をあげる。電車へ乗り込む直前、涼しげな潮風が頬を撫でた。

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