Sleeping
くたびれたジャケットの胸ポケットから、一枚の紙片を取り出す。ぞんざいな数字が羅列されたそれを片手に、目の前の受話器を持ちあげた。テレホンカードを差し込んでから番号を押すと、すぐに呼び出し音に変わる。コールを数える。五回までは想定済みだが、それより先はいつまで待たされるかわからない。そもそも、相手が出てくれるとも限らないのだ。
プルルル…………ガチャ。
二桁を過ぎて、口笛でも吹くかと思ったところで通話がつながり、思わず息を飲むと編に息が詰まった。黙って呼吸を整えていると、受話器から不機嫌そうな声が聞こえた。
「……誰だ」
「あー、もしもし? ちなみにこれ、方相(かたあい)宇治の番号で間違いないか?」
慇懃(いんぎん)無礼な声に問い返せば、電話越しの相手はしばし考え込むような間を作った。彼、方相に直接つながる番号はこれしかなく、また方相自身もこの番号を余程のことでは知らせない。おそらく彼は今、頭の中で番号を知っているであろう相手の候補をリストアップしているのだろう。こちらとしては、待つしかない。名乗ってもいいのだが、それでは偉そうな彼の鼻を明かせない。元々、方相を相手にするならば気長に待たなければならないことはわかっているし、何より、この程度を待つのは苦ではない。
「…………その声、覚えがある。……貴様、不死崩れか?」
「覚えていてくれて嬉しい。ところで、俺には生方黄泉(うぶかたよみ)って立派な名前があるんだが?」
「貴様の人間としての名など覚える気はない。何の用だ? まさか絵を集めるという洒落た趣味はなかろう」
「もちろん。俺があんたに連絡を取る用事、思いつかないか?」
「そういう問い方は好かん。はっきりと言わないのなら切るぞ」
「待て待て!」
ため息とともに、方相は「手短にな」と告げた。こちらとしてもテレホンカードを無駄にする気はないので、数百年ぶりの挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「『眠れる姫』の目覚めが近い。完全に起きる前に、眠ってもらう必要がある」
「……封印を俺に手伝えと言いたいのか?」
「姫の覚醒が近付くと、小物も寄ってくる。いくら小物とは言え、集まるとより悪いものを呼ぶからな。この辺はあんたの方が詳しいだろ? それを、適度に追い払ってくれればいい」
「俺よりも、陰陽師の方が適任じゃないのか?」
「もちろん、そうなんだが……いつもより早い目覚めだから、向こうの準備が整ってないんだよ。土御門(つちみかど)の血をここで危険にさらすのも嫌でな」
「俺なら危険でも構わんと」
「あんたを信頼してるってことだよ」
「物は言いようだな」
方相が鼻で笑う。実際、常ならば陰陽師の名家である土御門家と協力し、代々封印を施してきた。しかし相手が小物とは言え、準備の整っていない人間が相手にするのは気掛かりだ。万が一のことがあっては、今後の封印にも関わってくる。その点、方相は、俺が知っている中でも、間違いなく指折りの実力の持ち主だ。当てにもしたくなるというもの。
だが、言葉こそ文字のようにぞんざいだが、物事をはっきりさせることを好むこの男のこと。ここまで一言も断る言葉を述べていないということは、手伝ってくれると考えていいだろう。断るとしたら、もはや無言で電話を切られていても仕方がないくらいの相手ではあるのだ。
「で、手伝ってくれるという認識でかまわないか?」
「……ああ。いいだろう」
「助かる」
「どこにいる?」
「『眠れる姫』の近く」
「……住所を教えろと言っているのがわからんのか」
「はっきり言ってくれねえと」
先程の仕返しというほどではないが、方相を電話越しに黙らせて少しすっきりした。それだけの力を持っているからなのだが、いつも偉そうな態度を崩さないところが苦手なのだ。以前会った時は挨拶しただけで顔をそらされたものだから、それと比べれば幾分か話を聞いてくれるようにはなっていると思うし、彼の相手が得意なものがいるのか、という話ではあるが。
方相が無言のままなので、改めて現在地の住所と最寄り駅を告げた。ビーチとして賑わうこともない、海岸沿いの小さな町だ。方相がどこにいるのか知らないが、すぐ近くということはないだろう。案の定、相槌は「遠いな」という一言だ。
「すまんが、すぐに来てくれ」
「報酬を死ぬほど巻き上げてやるから、覚悟しておけ」
そう言うと、別れの言葉もなく通話が切れた。吐き出されたテレホンカードを回収して、メモと一緒に胸ポケットへ仕舞う。小さく安堵の息を吐いた。なんやかんやいっても、方相が来てくれるのなら心強い。
ローカル線の小さな駅舎に入り、時刻表を確認する。方相がすぐに向かってくれるとしても、新幹線の停まる大きな駅から乗り換えてここへ着くまでは時間がかかる。幸い、遅い時間でも電車は通るようだから、夜には着くだろう。
駅を出て辺りを見回すと、買い物袋を提げた主婦や、自転車に乗っている老人の姿が見受けられた。小規模ながら学校もある、暮らすには悪くない土地だ。やや寂れた印象は拭えないが。穏やかな潮風の吹くこの町に、とんでもない存在が封印されているなど、人々は考えもしないだろう。否、そもそもここに住む人々は、俺や方相のような人ならざるものの存在すら知らないだろうし、信じていないだろう。
「すみません。海に行きたいんだが、どちらへ行けば?」
ぶらりと歩き出してから、目を留める。駅前に帰ってきたところなのか、自転車を押しているおまわりに声をかけた。驚いたように振り返ったのは、眉尻の下がった、人のよさそうな男だ。歳は俺と同じくらい、おおよそ三十後半といったところ。
自転車のスタンドを立てて帽子をかぶりなおすと、彼は柔和な笑みを浮かべた。
「観光かい?」
「まあ、ちょっとした用事ついでに」
「そいつはいい。ここの海はきれいだけど、風が強いから気をつけなよ」
「ええ」
「ああ、海までだったね。二つ向こうの信号と交差する通りが商店街になってるから、右手に進んで商店街の終わりまで行くと、看板がある。あとはそれを見てもらって……ここからだと、大体歩いて三十分くらいかな」
「どうもありがとう。……あの、最近変わったことってないかな?」
「変わったこと?」
丁寧な道案内に感謝してから問いかけると、彼は帽子を少し持ち上げた。
「そうだな……波が高い日が多くて、近頃はあまり漁に出られないみたいだ。それに気候の変わり目なのか、体調が優れなくてね」
参ったよ、と苦笑するおまわりに小さく会釈すると、背中を向けて歩き出した。
複雑な道ではないようでよかった。駅近くの小さなビジネスホテルに部屋を取ってから海に行こうかとも考えたけれど、無駄になるような気もする。方相が来たらすぐに封印に取り掛かるつもりだ。早く済めば宿が必要になるが、そんなに簡単に済むものでもない。一晩くらいはかかるだろうし、なにせ彼への報酬もあるのだ。出費を控えるに越したことはない。
潮の香りと波音に、海が近いことを知る。言われた通り、商店街を通って歩いてきた。腕時計を見ると、なるほど、駅からおおよそ三十分。
ここへ来るまで、何人かの地元住民とすれ違った。何も老人ばかりではないのに、誰もが少し疲れた顔をしていた。警官の言っていたように、体調の優れない人が多いようだ。商店街も定休ではない休みを取っている店が見られた。わずかながらも、覚醒の影響が出始めているのだ。あれの覚醒は、人間にとっては間違いなく毒だ。
海岸沿いには、さほど高くない防波堤が築かれていた。その向こうには大きなテトラポッドが積まれており、白波が強く打ち寄せている。水平線近くの雲は暗い色で垂れ込め、いつ嵐になってもおかしくない雰囲気だ。これも、覚醒が近付いている証拠だろう。
「……おや」
そんな景色に溶け込むように、一人の少女が防波堤に寄りかかって海を眺めていた。黒いセーラー服が潮風にはためいている。地元の子だろうか。学生が出歩く放課後には、まだ早すぎる時間だが。
「や、こんにちは」
「……こんにちは」
「こんなナリをしてるけど、おじさんは観光に来ていてね。君、この辺の子?」
「…………」
「あー、警戒するのも無理はない。いや何、青春の黄昏(たそがれ)にはちっと暗い雰囲気で心配だから声をかけたんだ。お節介なのが俺の悪いところだなあ」
声をかけると少女は振り返ってくれたが、こちらを見る視線は猜疑に満ちている。親しげに笑いかけてみるが、少女の顔は硬いままだ。それも当然だろう。くたびれたスーツ姿にサングラスをかけた銀髪の男が話しかけてきたら、普通は怪訝に思う。思わなければ、正直そちらのほうが心配だ。自分が明らかに怪しい人物と自覚があっても話しかけたのは、もちろん単なるお節介ではない。
「……晴れていれば、大層な眺めなんだろうな」
切りそろえられた前髪の下できつく眉を寄せる少女から視線をそらし、海を眺める。遠い海岸沿いに、少し海へせり出した出島を見つけて目を細める。
「あ。そうだ君、最近変わったことって――あれ?」
ついでに聞き込みをしておこうと振り返ったが、少女の姿はなかった。辺りを見回すと、早足で去って行く背中だけが見えた。ため息をついて、風になぶられる髪に手櫛を通した。もう少し見た目を何とかしたほうがいいのはわかっているのだが、いかんせんサングラスでもないと右目の傷が隠せないのだ。いっそ眼帯の方がマシかもしれないが、そうすると視界が不便になる。目が見えないわけではない。
「……人が入ることはなさそうだが、近くに道路が通っているのは厄介だな」
先程見つけた出島を眺めながら、ポケットから煙草を取り出す。安物のライターがかちかちと音を立てるが、なかなか点火しない。風よけに立てた掌の中でようやく灯った光は、煙草に火をつけるとすぐに消えてしまった。
防波堤に沿って歩きながら、物思いにふける。
前回の封印は、今から約二百年前だった。平安より続く陰陽師である土御門一族の血を引く男に手伝ってもらった。本家の者ではなかったが、十分な力の持ち主だったため、封印もつつがなく終えた――そのはずだった。
『眠れる姫』の封印は、基本的には数百年単位、短くても三、四百年はあった。二百年で覚醒が始まるなど今まで一度もなかったこと――これは、異常だ。原因があるとすれば、それはこの土地か、あるいは俺自身にある。二百年前は漁師の他は近寄らない海だったので、封印するにも支障はなかったのだが、今やすっかり開発されてしまった。
陰陽師ではない方相に手伝ってもらうのは初めてだから、今回もどうなるかわからない。しかし、彼の手伝いはあくまで覚醒に伴って集う妖怪たちを払うこと。封印そのものは神代より行ってきたのだから、失敗することはないだろう。
「いつ頃着くのか、聞き忘れたな」
ふと、方相の存在を思い出して呟いたが、彼ならば妖怪の集まる場所くらい見当がつくだろう。その手のプロだから、彼を呼んだのだし。迎えに行かなくても平気だろうと判断すると、煙草を携帯灰皿に仕舞い込んだ。
さて、と息を吸う。
今どれくらい覚醒しているかの確認と、封印のための下準備を済ませておかなければならない。その上で時間があれば、駅で方相を待とう。
嵐になりそうな空と混じる水平線を眺めながら、深いため息を風に溶かした。
*
御園海菜(みそのみな)は、ごく一般的な中学二年生だ。海沿いの小さな町にある中学校に通っている。いじめとは無縁だが、小学六年生の時にこの町へ転校してきた彼女は、特に親しい友人を持たない。ほとんどの生徒が同じ小学校からの持ち上がりである小さな町で、海菜のような存在は若干の馴染みにくさを覚えていた。
「……変な人、いない」
昼過ぎには荒れていた海も、夜になって少し落ち着いた様子だ。まだ風は強いけれど、波は少し弱まっている。夜の暗い海は、見慣れた海菜でも寒いものを覚える。
いじめられているわけでもない。家族と不仲なわけでもない。海菜が思い病む理由は何一つない。しかし思春期に置かれている彼女は、漠然とした孤独を感じていた。多感な時期だから。誰しも孤独を感じ、ふさぎ込む時期があると、誰が彼女に言えるのか。生を受けて十四年にも満たない少女は、己が感じているものが孤独であるとしか、言い表せなかった。他者から見てそれは勘違いであったり、思い込みであったりするけれど、少なくとも当人、海菜にとってそうであるならば、それが真実だ。
だから海菜は、海へ来る。学校の帰りや夕食の後。今日は初めて、学校をサボって来てしまった。寄せては返す波の音を聞いていると、少しだけ寂しさを忘れることができた。孤独をまぎらわすことができた。
学校をサボって海を眺めていた海菜に、見知らぬ男が話しかけてきたのは昼過ぎのことだ。自らを観光客だと名乗った男は、けれど不審者にしか見えない。男は海菜の様子が心配で声をかけたと言っていた。確かに、昼休みに学校を退けて海岸沿いへ行ったから、一目見て普通ではない。けれど海菜が男を怪しんだのは、その風貌もさることながら、サングラスの奥から、まるで心の底を見透かされた気分になったからだ。
海菜は、男から逃げるようにその場を去った。男は追いかけてこなかった。
夕食を終えた海菜は、なんとなく散歩に出た。その足は、何かを考える暇もなく海へと向かっていた。
「何だろう、あれ……光ってる?」
いつものように防波堤に寄りかかっていた海菜は、いつもと異なる光景に目を細める。灯台のない海は黒々と塗りつぶされており、海岸沿いの道路に立つ外灯だけが地形を浮かび上がらせていた。海菜の目に映る光の源は、いつも人気がない、少しだけ海にせり出した出島だ。海を横目に走る道は、この出島を抜ける時だけ青い視界を遮られる。もったいないから、道路にするかなくしてしまえばいいのにと海菜は思う。一見小高い崖に木々が林立しているだけに見えるそこから、ほんやりと青白い光が放たれていた。
「何かあるのかな……」
寄りかかっていた防波堤から体を離すと、海菜は歩き出した。
*
「何を好き好んで、こんな中途半端な土地に封印なんぞしたんだ」
「……開口一番、大層なお言葉なこって。お前が生まれるずーっと前は、ただの海だったんだがなあ」
「封印する土地を変えることはできないのか?」
「神でもない限りは、無理だろうな」
「……そうか」
街からの帰宅ラッシュも落ち着いた夜九時過ぎ。
方相は小さなトランクを片手に、無人改札の箱に切符を落とし入れた。三つ揃いの上品な仕立てのスーツに身を包んだ彼は、長い金髪を一つに結って背中に流している。品の良さが全身から溢れ出ている。誰もが振り向くほどの美形であることは間違いないが、目つきが悪すぎて誰も近寄らないだろう。こうなるとわかっていたはずなのに、彼を迎えに来た自分を恨む。方相から罵声を頂戴したことのないものはいないだろうと確信するほど、いつも通りのご挨拶だ。
「準備は済ませてある。すぐにでも取り掛かろう」
「準備だと? これでか? ……貴様、どれだけ退魔の力がないんだ。小指で片付く程度の連中がうようよしているが」
「仕方ないだろ。俺は『眠れる姫』に集中しなくちゃならない」
「ふん。なるほど、陰陽師の力も借りたくなるわけだ」
「行こう」
方相の嫌味を遮るように言うと、彼も口をつぐんで険しい表情になる。明かりが落ちた通りを足早に歩きながら、方相に手際を説明する。
「お前は、俺が封印するかたわら寄ってくる妖怪たちを片っ端から片付けてほしい」
「お前自身の身は?」
「俺は、死なないから」
「……そうだったな。封印にはどれくらいかかる?」
「時々で違うんだが、今回は長くかからないと思う。夜明け前には片がつくさ。……たぶん、眠りが浅いんだ。完全に覚醒するわけじゃない」
昼過ぎの準備で様子を確かめた時、いわば寝ぼけているような状態だった。すぐに覚醒する様子ではなかったから胸を撫で下ろしたが、寝ぼけているのならばかえって危険だ。意識のないまま力を振るわれれば、この小さな町一つくらい地図から消し飛んでしまう。覚醒時と異なり、封印に際して意識をそらす必要がないことだけが救いだが。
「貴様が出来るというのであれば、ともかく俺はそれを信じるが……」
「何かあるのか?」
方相は話が早い。そして、良くも悪くもはっきりとした会話を好む。言葉尻を濁すのは、この男らしくもない。怪訝に思って聞き返す。
「……『眠れる姫』とはなんだ? 名前くらいは聞いたことあるが、俺も関わるのはこれが初めてだ。お前自身が不死としてこの世に在って久しいはずだが、それは、お前よりも古き存在なのだろう? 数百年ごとに封印しなければならない強大な存在でありながら、なぜ祓われない。神の手にも余るというのか?」
言葉を飾らない方相の問いに、足を止める。これは、方相宇治としての問いではない。人に仇なすものを斬り祓う、方相氏(ほうそうし)としての問いだ。いずれ人に仇なす可能性があるのならば、斬り捨ててしまいたいという感情が透けて見える。もちろん、彼の言うこともわからないでもない。
「俺も……本当のところは知らない。だが、知っていることを話そう」
先へ進むことを方相へ促し、再び歩き始めた。
「俺は『眠れる姫』なんて呼んでいるが……遥か昔、神や人はあれを、神の鬼――神鬼(しんき)と呼んでいた」
「神の鬼?」
「どういうわけか神代に生まれたその鬼は、一柱の神に匹敵するほどの巨大な力を持っていた。その眼差しは闇を寄せ、吐息は嵐を呼んだ。腕は千の人間を引き裂き、脚は大地を割った。そして神々は……その鬼を長い眠りに就かせることにした」
相槌はない。構わず続ける。
「神の力を以てしても、神鬼は数百年ごとに目を覚まし、そのたび人々は危険にさらされた。時代を下るにつれて信仰の薄くなった神々の力は弱まり、神鬼が眠っている期間は短くなった。そんな時、神々が目を付けた男が、俺だ」
「……何故」
「不死になったからさ。いつまでも死なない、死ねない身となった俺は、それでもいつか黄泉の国に迎えられることを望んでいた。神は俺に、神鬼を封印し続け、いずれ罪に相応しい働きを終えたら死なせてやると言った」
「ちょっと待て、罪だと? 貴様、何をしでかしたんだ」
「そこは今関係ないから、割愛な。とにかく、俺があれを封印するのはそういう理由だ。お前の言う神の手に余るというのは、まったくその通りだよ」
「……『眠れる姫』というのは、西洋の童話か?」
「ああ。王子はいないけどな」
「お前のことじゃないのか」
「冗談止してくれ」
柄にもなく茶化す方相に思わず真顔で返すと、視線を海に向けた。あまりにも暗く、空も海も区別がつかない。
「……本当の王子は、神なのかもしれない」
「何?」
「数百年ごとに王子が姫を起こして、俺はそれを再び眠りに就かせる魔法使い……なーんてな」
「やけにメルヘンなことを言うんだな」
足を止めたのか、方相の声が遠い。けれど構わず、道路の外灯を頼りに、防波堤に沿って歩みを進める。
「方相が相手だからかな。忘れてくれ。お前と仕事をする事は、たぶん、もうないから」
「お前……」
少し戸惑ったような方相を引き離すように足を速めているうちに、やけに視界が明るいことに気付いた。黙々と歩みを進めるこちらを不審に思ったのか、すぐに方相が追いかけてくる。
「どうした」
「方相、光っているのが見えるか?」
「ああ。あそこか?」
「位置的にはな。ただ、あんなに明るくなるはずがない。目印として見えるのならわかるんだが……あれじゃまるで、封印を解かれたような、」
「馬鹿ッ! それだけわかっているなら十分だ!」
考えながら言葉をつむいでいると、方相がすぐ横を駆けて行った。先行く金髪の後を、慌てて追う。方相の姿は既に、スーツではなく五色に彩られた方相氏の衣装に変わっている。おそらく瞳も二対になり、額には二本の角をいただいているのだろう。その証拠に、道路を這う低級妖怪たちは、方相氏に追い抜かれるたび煙のように消えていった。
光が近付くにつれて、背筋が凍るような感覚が駆け上がってくる。踏みしめているのが大地なのかさえも判然としない。例えるなら、糸がぎりぎりのところで繋がっているような、そんな危うい印象を受ける。
「誰か……いるのか?」
眠りが浅いとはいえ、一日二日で覚醒するような状態ではなかった。もしそうなら、暢気に方相を迎えに行ったりしない。誰かが故意に封印を解くか、あるいは封印そのものに触れた反動のせいでもなければこれほどの力が外に溢れだすとは思えなかった。あそこには、封印の他は何もない。何か起こるとすれば、それはすなわち、『眠れる姫』に関わることだ。
封印されている場所は海にせり出した出島だが、ガードレールを越えればたどり着けないこともない。しかしあまりにも切り立っていて、釣りのスポットとしても訪れられることのない場所だ。時刻も遅く、人通りも少ないからと見張っておかなかったが、漏れ出した神鬼の力を見てしまった人間がいるのかもしれない。普通の人間には見えない光だが、波長が合うとか神鬼の力が強いだとか、そういった要因はいくつでも考えられる。常に万全であることなんて、この世には何一つないのだから。こんなことなら、やはり、方相を迎えに行かなければよかった。
その時、遠く、水平線の彼方から腹に響くような音が轟いた。走りながら横目に見れば、稲光が見える。
「嵐が来るぞ!」
「見ればわかる! この辺り一帯が明らかに不安定だ、急げ!」
「急いでるけど、お前が速いんだよッ」
当人には聞こえていないであろう愚痴をこぼしつつ、サングラスを外して胸ポケットに突っ込む。雨の匂いを感じた時、ようやく出島のガードレールにたどり着いた。そこは既に明るい光に包まれていて、昼間と紛うほどだった。けれど、遠く水平線の辺りは風が吹き、雷が落ちている。アンバランスな光景に飲まれかけて、足が止まる。
「これで寄ってくる奴らはたいがい愚かだな」
舌を打ちながら、方相氏は手にした鉾で近くにいた妖怪を斬り祓った。いつもは陰陽師に任せているから気にかけたことはなかったが、確かにこれだけ大きな力に近寄ってくるのは命知らずの雑魚ばかり。方相氏の手にかからずとも、力にあてられて自ら消えるものもいるくらいだ。
「それより貴様はあれをなんとかしろ!」
方相の言うあれが封印であることはわかった。不安定な力に寄って来るのは雑魚ばかりのようだし、一任して大丈夫だろう。「任せる」と言い残し、ガードレールを飛び越え走り出した。
昼のうちに訪れているから、少し行けば草を踏んだ歩きやすい道になる。それでも、あとは夜に来るだけだからと手を抜いて道を作ったはずだが、肩の辺りにある木の枝が折られて歩きやすくなっている。間違いなく何者かがここを通ったのだ。
「トチったな……」
顔をしかめながら、昼に手を抜いたツケが回ってきた木の枝を叩き折る。
ここを通った人物は、折られた枝の高さから推測して俺よりも背が低い。丁寧に折られているが、太い枝は諦めたのかそのままになっている。あまり力の強くない女性だろうか。
「って、考えてる場合じゃねえか」
この先へ辿り着けば、おそらく封印に触れた人物の正体がわかる。考えるよりも足を動かさねばならない。
もう少し行けば、崖の手前に少しだけ拓けた場所がある。外からは見てわからないが、その地の中心には縄を張った岩がある。もちろん封印の一部なのだが、それがすべてではない。むしろその下の地中深く、海中深くにこそ『眠れる姫』は封じられている。遥か昔、神代の頃から何百年、何千年もの間。
木々の隙間から溢れる光が次第に多くなり、目の前が光で満たされた時、少女の叫ぶような声を聞いた。
*
海菜は、白いガードレールを前にして躊躇っていた。
青白い光を目指して歩いてきたものの、光を発しているのはガードレールを越えた先、道のない林の奥だ。辺りは人気がなくて薄暗い。地元の漁師も、あまりに切り立っているから近付くことはないという。
この先の闇へ進むか、進まないか。
――……たい。
「えっ?」
声が聞こえた。聞こえたというより、誰のものともつかない声が、頭に直接響いた。男なのか、女なのかもわからない。しかしその声は、彼女を呼んでいるように思えた。
「…………」
小さく息を飲んで、海菜はガードレールをまたいだ。
すると不思議なことに、今まで薄暗くて見えなかった辺りがぼんやりと光っているように見え、草木がかき分けられている細い道を見つけた。誰かが通ったあとだ。歩きながら、邪魔になる枝を折る。しかし少女の力では折れない太い枝もあり、いくつかは仕方なく避けて進んだ。
歩みを進めるにつれ、海菜の心は空っぽになっていく。草をかき分けて進むのは彼女だけでなく、自我を持たないほど小さな妖怪たちもだ。海菜には見えていないが。光に吸い寄せられていく様は、まるで必死に羽ばたく虫のように。
――……たい。
またも、声が響く。はっきりとは聞き取れないけれど、何度も跳ね返る言葉は次第に海菜に染み込んでいく。
「誰なの……?」
海菜の口からこぼれた言葉に答えるように、言葉はますます反響を繰り返す。
何を望んでいるのか。海菜は訊ねるように歩を進めた。
やがて、目の前が開けた。ようやく立ち止まった海菜は、半ば呆然としながら辺りを見回す。眩しさに目が慣れてくると、中央で青白く光っている岩を見つけて近寄った。
「何だろう、これ」
太い縄が巡らせてあることから、ただの岩ではないと海菜にもわかる。何より青白く光っているのだ。普通ではない。神社とかで見かける、いわゆるご神体のようなものだろうか。
頭の中に、何度も先程の声が響く。何かを求める声に誘われるように、少女は手を伸ばした。
そして、岩に触れた時。
――生きたい。
はっきりとした言葉が、海菜の頭に響いた。
何かを思う暇もなく、岩から溢れ出す光が増す。あまりの眩しさに少女は顔を覆った。海から吹いてきた突風が木を揺らし、葉を散らす。風にあおられて尻餅をついた少女は、指の隙間から光の源の様子をうかがった。
「あなたは誰なの? それに、生きたいって――」
海菜が問いかけると、青白い光は一層増した。まるで岩が、彼女の言葉に呼応しているかのように。その光に包まれながら、少女はふらりと立ち上がった。眩しさに目をくらませながら、再び岩に向かって近寄る。岩に触れると、海菜の頭の中ではっきりとした言葉が響き渡る。
――生きたい……ただ、生きたい……。
「生きたいって、どういうこと? ねえ、どこにいるの?」
――くらい……。
「暗いところ? もしかして……この下?」
視線を落としたのは、大地。埋まっている岩が光っているからか、地面もぼんやりと白んでいる。
「……どうしたらいいの?」
声は、変わらず少女の中に響いている。何者かもわからないけれど、生きたいと渇望する声を見捨てることはできなかった。生きたい。何かを強く求めることができる誰かが、海菜は羨ましかった。目を細めて、岩をまさぐる。
その時、海菜の手が触れた縄が、もろく崩れ去った。
「――え」
触れただけなのに。そう思うと同時、吹き付ける風が強くなり、ぞくぞくとする寒気が体を駆け抜けた。明らかに空気が違う。頭の中で、何者かの言葉なき声がわんわんと響いている。海菜は頭を押さえて膝を折った。
「何これ!?」
獣の吠える声のような、風の唸る音のような。そんなものが、海菜の頭を叩き割らんとばかりにぐるぐると巡っている。先程の比ではない。コップのふちにギリギリまで溜まっていた水が、一気に決壊したような、濁流。
――生きたい。
頭の中で渦巻く言葉に、海菜は叫び返した。
「そんなに生きたいのなら、好きに生きればいいじゃない!」
*
生きたいのなら好きに生きればいい、という叫び声に辺りを見回すと、岩のそばに少女の姿が見えた。
「おい!」
駆け寄って肩を掴むと、少女はゆるゆると顔を上げた。ぼんやりと濁った瞳の少女には見覚えがある。
「昼間の……」
思わず口にしてから、すぐにハッと岩を確認する。眩しくてかなり見えにくいが、張られているはずの縄が解かれている。まさかこの少女、『眠れる姫』のことを何か知っているのか――そう勘繰るけれど、すぐにそれは後回しだと気付く。少女を引きずるようにして岩から離れたところへ連れて行くと、左目だけ閉じて岩の前に立つ。
「何でもいいが、ちょっとそこで大人しくしててくれよ。……まあ、動けなさそうだけど」
頭を押さえている少女を横目で見やり、念のため言い置く。
改めて岩を――封印を見る。鮮烈な光と空気を震わす気迫に、神鬼が覚醒しかけていることを察する。しかし、まだ大丈夫だ。岩に張られている縄は確かに封印の一部だが、それが解けただけですべての封印が解けるというわけではない。少々手荒になるが、このまま無理にでも封印しなおすのがベストだろう。
「頼むぜ――――こっちのお姫サンよ」
右目の傷がぎちりと開く。何かが頬を伝う感覚に眉を寄せた。古傷を押し開いて新たな傷が作られていく。
「う、ぐ……っ」
痛みに漏れる声を噛み殺しながら、時を待つ。
神に匹敵する力を持つ神鬼を封印するためには、当然それ以上の神の力が必要となる。とはいえ、いくら俺が不死の体で神鬼を封じる役を任じられたとしても、封じるだけの力を丸々授けられるわけはない。それ以前に、人間の体では堪え切れるはずがないのだ。
ゆえに与えられた、もの。
「やれやれ……二百年ばかりで妾(わらわ)を喚び出すとは、お主もガタが来ておるのかのぅ、黄泉や」
「そいつはむしろ、あんたの方じゃねえんですか。菊理姫(きくりひめ)」
「ほほほ。減らぬ口よ」
右目を抑えながら、残る左目を開けて岩の前に立つ人物を見た。風になびく長い黒髪は、彼女がまとっている着物と一体化して吸い込まれそうなほどの闇色をしている。この世のものとは思えないほど白い肌の美貌を持つ、菊理はまさしくこの世のものではない。
「悪いな、姫。本当はこんなんじゃなかったんだが、」
「良い。この程度ならば爪の先程も常と変わらぬわ」
「……ありがてぇお言葉」
まだ痛む右目に押し当てた手の力を強める。菊理が岩に手を触れると、これまで吹いていた風が嘘のように静まった。目が眩むほどの光も、幾許か弱まっている。
菊理、彼女は真の名をククリヒメと言う。ククリヒメとは、黄泉平坂(よもつひらさか)に在って死の世界を司る神の名だ。俺は、不死の体であることを活かして人間の住まう常世(とこよ)と菊理の在(あ)る異世(ことよ)を結んでいる。そして神鬼を封印する際には菊理を喚び出し、彼女に封じてもらうのだ。
「何を……してるんですか?」
「ッ君は!」
「何を、してるんですか」
菊理に封印を任せていると、後ろから少女の声が聞こえて振り返った。頭を押さえているが、きちんと自分の足で立ってこちらを見据えている。
「……君には関係ないことだ。危ないからじっとしていてくれ」
「何をしているんですか」
その場を濁そうにも、少女はそれを許してくれなかった。昼間の猜疑とは異なる、強い意志に満ちた目に息を飲む。
この少女は、何だ。普通の人間が神鬼の存在を知っているはずがない。そして今までの経験則から言って、このような場面で人が動揺しないはずはないのだ。それなのにどうして俺や菊理さえも見透かして、封印の岩を、神鬼を見据えているのか。
「何をしているかは言えない。それと、君にそこを動かれるわけにもいかない」
右目を押さえていた手をだらりと下ろし、少女に向かって一歩踏み出す。びくりと肩を揺らした少女に向けてさらに一歩、歩みを進める。その瞬間、彼女はどこにそんな力が隠されていたのかと思うほどの瞬発力で駆け出した。よりにもよって、使えない右目側を駆け抜けるものだから、距離感がつかめないまま伸ばした手は空を切った。
「チッ、おいこら! 待てって!」
思わず舌打ちをして振り返ると、少女が菊理と岩の間に割り込んで両手を広げていた。
「この下から生きたいって聞こえるの! 私にはよくわからないけど、あなたたちはこの人の嫌がることをしようとしている! そんなの、可哀想だわっ」
悲鳴にも聞こえる少女の叫びは、確かに神鬼の声を聞いているようだった。俺にははっきりと聞き取れたことはないが、覚醒が近付くにつれて唸るような神鬼の声を聞いたことはある。千年以上前に神鬼が覚醒した時、菊理がそれと言葉を交わしている風だった。
「……生きたい、か。それで、君はどうしたいんだ?」
「……え?」
「よしんば俺たちのやろうとしていることを阻止したとして、そいつが決して良いものでないことは、君自身の感覚で理解しているだろ」
問いかけると、少女は戸惑ったように岩と俺を交互に見やった。菊理は真っ黒な瞳で少女を見つめたまま動きを止めている。はたからみれば、人形のようだ。
「俺たちは別にそいつを殺すわけじゃない。ただ――眠りに就いてもらうだけさ」
「眠りって、でもそれが、」
「俺だって、生きたいと願うやつを生かしてやりてえさ!」
「っ!」
「だけど――それは、出来ない」
息を飲んで怯んだ少女に畳みかける。生きたいやつが生き、死にたいやつが死ぬ。それが出来る世界であったなら、どんなによかっただろうか。
「……出来ないんだ」
こんな時、方相のように有無を言わせず相手に言うことを聞かせられたらと思う。俺は不死の体で、右目が異世に繋がっている。けれどそれだけだ。それ以上の力を、俺自身は持たない。こういう時に出来ることは、ただ言葉を重ねるだけなのだ。
「……君、そいつに自分を重ねてんじゃないだろうな」
強い意志を持っていた少女の瞳が揺らぎ始める。昼間に見かけた時、黄昏にはいささか暗い雰囲気だったことを思い出す。人間が何に悩むかはわからない。けれど強大すぎる神鬼の力に魅せられた人間が、これまでにもいなかったわけではない。彼らの多くは、封じられる存在である神鬼に、自身を重ねていた。
「君とそいつは違う」
「違わない……ただ、生きたいだけ、」
「違う! 君は、生きている。ちゃんと生きてるんだ」
「じゃあどうしてこの人は――きゃっ!」
震える目で、それでも必死に訴えかけてくる少女の体が、突風にあおられてぐらつく。
「黄泉、時間がないぞ」
「ああ、わかってる。……とにかく一度、こっちへ来るんだ」
菊理に言われて手招きをするけれど、少女はふらついたまま岩にしがみついて離れようとしない。嫌だと言う代わりに、首を横に振っている。
菊理の力で収まったはずの風が再び吹き、岩が光り始めた。封印が不安定になっているのだ。このままでは、本当に覚醒してしまう。
「頼むからこっちに来い! そこにいちゃいけないのはわかるはずだ!」
「黄泉」
菊理の言葉は最後の忠告だとわかった。これ以上待てば封印が解ける恐れがある。ならば、少女もろとも封印をかけるほかない。菊理は人を守ることはしない。ただ、己が使命を果たすためだけに、常世に来るのだ。それは、それだけは、させたくなかった。
「来い! 生きたいんだろ!!」
強く踏み出して左手を差し出すと、ようやく少女はふらりとこちらに足を進めた。すぐに駆け寄って腕をつかむと、そのまま後ろに下がる。
「暫し眠れ。そしてまた――、時を待つのじゃ」
菊理の言葉を最後に、辺りに蔓延(まんえん)していた寒気すら覚える空気が封印の岩に凝縮されていくのを感じる。いつの間にか真新しい縄が巻かれていて、風も頬を撫でる程度に収まった。
封印は終わったのだ。
「はー……」
深いため息を吐くと、腕をつかんで抱きかかえていた少女が地面にへたり込む。波長が合うとはいえ、あれだけ強大な力にあてられていたのだ。緊張が解けて当然だろう。一方の菊理はというと、既に封印に背を向けてこちらへ向かっている。異世に在る彼女が常世に居続けるのは毒なのだと、もう覚えていないほど昔に聞いた。
「すまん、姫。また近々喚ぶことになるかもしれない」
「そうならぬよう、きつめに封じておいたわ。お主の顔は見飽きたからのぅ……あと五百年は会わぬことを願っておるぞ」
「ああ、違いない」
くすりと笑った菊理の氷のように冷たい手が頬に触れると、右目の傷が熱をはらむ。痛みに顔をしかめた次の瞬間、菊理の姿はなかった。還ったのだろう。いつも思うのだが、来る時ももう少しこちらに負担のない方法を取れないのだろうか。封印のたびに広がっていく傷を押さえると、今更のように激痛が頭に響いた。
「ってぇ……」
思わずふらついた足元がもつれて尻餅をついた。それに驚いた少女が、ゆっくりとこちらを見る。
「あー、何というか、色々悪かったな。驚かせちまった」
「あの……私も、ごめんなさい。目、大丈夫ですか?」
「これは気にすんな。君があれの声を聞いちまったのは、俺が手を抜いて仕事をしていたからだ。すまなかった」
怖がらせてしまうと悪いと思い、胸ポケットから取り出したサングラスをかけて、深く頭を下げる。人の世は移ろいやすいものなのだ。それに対応しきれず、結果一般人を巻き込んでしまった。これは何をどう言っても俺の過失だ。神々は、決して巻き込まれただけの人を助けてはくれない。俺が、守るしかないのだ。
「あの……」
何を言ったものか、少女が言葉に迷っている気配がする。小物を片付けた方相が、様子を察して直に駆けつけるだろう。それまでずっと頭を下げていよう。無我夢中で少女に言葉を投げつけてしまったが、俺は生き続ける存在なのだ。生に、そして死に悩むことが理解できない。人間の短すぎる生に何かを思うことがいつからか出来なくなってしまった。そんな俺が偉そうに説教したのだ。謝るほかに、出来ることが思いつかない。
「あの、顔を上げてください。……聞きたいんです」
「……何を?」
頭は下げたまま、少しだけ顔を上に向けて少女を伺う。
「あれは……何だったんですか?」
「誰って訊かない辺り、薄々わかってるんじゃないか?」
苦笑しながらそう言うと、少女が息を吸ったので、喋り出す前に言葉をかぶせる。
「あれは――『眠れる姫』だよ。あいつが望むように生きられる時が来るまで、俺たちはあいつを眠らせるんだ」
「望むように、生きられる時が来るまで……?」
「……たぶん、な」
心に思い浮かんだことを口にすれば、少女はそれをおうむ返しにしてそれっきり黙り込んでしまった。再び顔を地面に向けて、じっと、方相が来るのを待った。
やってきた方相は、何も言わずに首根っこを掴んで俺を立たせた。さすがに驚いたけれど、いつの間にか身に着けていた上品な三つ揃いのスーツを器用にも汚すことなく来てくれたのかと思うと、感謝の言葉がありこそすれ、文句を言う気にはならなかった。
少女は突然現れた方相に大層驚いた様子だったが、俺が「家まで送るよ」と言うと小さく頷いた。
道路に戻ると、空が薄っすらと白んでいた。異世のものに関わった時、体感より時間が経過しているというのはよくあることだ。この時間なら、想定範囲内である。方相は少女の住所を聞くと早足で先に行ってしまった。遠く朝陽を受けて輝く金髪を眺めながら、少女の歩みに合わせてのんびりと歩く。
少女が何を思い悩んでいるのかも、なぜ自身を神鬼と重ねたのかも、俺にはわからない。生きているだけで幸せなのかわからないし、苦しいからといって死ぬことが幸せになるのかもわからない。生きることも死ぬことも、考えれば難しいことだ。考えなければ、ただ受け入れるだけの事象であるというのに。
「あなたは、誰なんですか?」
不意に聞こえた声が少女のものだと理解するまでに数秒を要した。振り返ると、彼女は目を伏せていた。
「……俺が誰かなんて、俺自身にもわからんさ。ただ、今は生方黄泉って名前がある、ちょっと訳ありの男だ」
「生方さん……」
「君が生きてるうちにまた会うことはないだろうから、俺の名前なんて覚えなくていいぞ」
苦笑しながら言うと、少女は無言で首を横に振った。どう見ても普通の人間じゃないおっさんの名前を覚えておこうだなんて、変わっている。それが理由もなく嬉しいと感じるのだから、俺もたいがいどうかしているが。
「……貴様は亀か? 仕事もそっちのけで来ているんだ。帰りは始発に間に合わせるぞ」
急かす方相は、先程より近いところで足を止めてこちらを振り返っていた。彼の口汚さに少女は体を硬くしたが、それを向けられているのは彼女ではなく俺一人。少女に方相の言うことを聞いてもらう義理はないが、かといってちんたらしていれば彼のことだから延長料などと言って報酬をせしめることだろう。
「少し急ぐか。親御さんも心配してるだろうし」
「でも、…………はい」
少女は数歩後ろを歩いている。何気なく目を向けた海は昨日が嘘のように凪いでいて、雲間から落ちる朝陽を跳ね返して輝いていた。眩しさに目を細める。世界が美しいと感じる時、それは確かに、俺でさえ生きているのだと感じられる。
それから黙ったまま歩き続け、商店街を抜けて、住宅が軒を連ねる通りに入ってしばらくすると、方相が一軒の家の前で足を止めた。
「あーっと、ここで間違いないか?」
「あ、はい」
方相が何も言わないので代わりに訊ねると、少女は肯定した。小さな二階建ての家だ。表札には御園と掲げられている。続けて名前が三つ連ねられているから、最後に書かれている海菜というのが少女の名前だろう。
「それじゃあこんなナリだから事情の説明はできねえけど、親御さんに顔見せて、それからゆっくり休みな」
「はい。あの……色々と、ありがとうございました」
「礼を言われることなんてないさ。そら、帰んな」
「あ、はい」
何度もこちらを振り返って頭を下げる海菜が躊躇いがちに玄関のチャイムを押したのを確認すると、くるりと背を向けて歩き出す。先に行っているかと思った方相は、意外にもすぐ隣に立っていた。
「おっと……先に行ってるかと思った」
「貴様がいなければ報酬がふんだくれんだろうが」
「……あ、そ」
スーツのポケットから煙草を取り出して火をつける。眉をひそめた方相が目をくれたが、何も言わないので構わず煙を吐いた。
「……生きたいと願うやつが生きれればいいというのは、裏を返せば、死にたいと願うやつが死ねればいいということか」
「……そこから聞いてたんなら、手伝ってくれても良かったんじゃねえの?」
「俺が手を出せる範囲か。神の手にも余るものなど御免だな」
ふん、と鼻で笑った方相には、やはり嫌味が通じないらしい。
「不死崩れ、貴様は死にたいのだな」
「…………ああ」
「曲がりなりにも、元は人間ということか」
「方相、お前は死にたいとか、生きることに疲れただとか思ったことないのか?」
「ない」
「即答だな……」
あまりにもきっぱりと返された答えはいっそ清々しい。方相氏は、もともと人を守るため世に存在を得たのだという。その役目を果たしている限り、人がいる限り、彼は常世を去る気にならないのだろう。俺には到底、真似できない。
「くだらんことを考える辺り、やはりお前は人間だな。俺よりも長く生きていて気付かんとは、おめでたい頭をしている」
「何の話だ」
カチンとくる言い回しに刺を隠さず返答すれば、駅前の公衆電話に向かいながら、彼は珍しく振り返って言った。
「――生きるというのは、存外悪くないものだ」
「……は?」
怪訝な表情を隠さない俺をほったらかしに、方相は電話をかけ始めた。誰を相手にしているのかわからないが、相変わらず偉そうな物言いだ。
意味深な言葉を発した彼のことを邪推するのも気が引けて、朝早すぎる駅舎に入り、電車の時刻を確認する。始発まで一時間以上ある。駅舎を出て、灰皿を探す。公衆電話と逆の方向に目当てのものを見つけて、吸殻を落として新しい煙草をくわえた。風もないのにライターに火がつかない。よく見るとオイルが切れているようだ。ポケット中を探したが、新しいものはない。舌打ちしながら煙草を諦めた。
「おい」
電話を終えた方相に声を掛けられて、報酬のことを思い出す。彼のやっていることは、まるで人間みたいだと思いながら両手をあげる。
「悪いが手持ちはない。後日届けるから、連絡先を――」
「早いうちに来い」
「お、おう……用意のいいことで」
目の前に突き出された紙を受け取ると、それは住所だけが書かれたメモだった。元よりお見通しというわけか。
「勘違いするなよ。今回、金はいらん。アトリエが手狭になってきたから、要らん絵を持って行ってもらうんだ。労働力だな」
「……それ、出すとこに出した方がいいんじゃねえのか」
「知らん。画商のやつがいつまでも来んから、誰かに押し付けんと新しいキャンバスも立てられないだけだ」
「どんだけあんだよ、清治(きよはる)センセ」
「……なんで知ってるんだ、貴様は」
茶化すように言えば、方相は嫌そうな表情を浮かべた。妖怪のくせに絵を描いて人と繋がっているのだ。知られていないと思う方が嘘だろう。界隈では有名だぞ、と言ってやれば、ますます不快そうな表情を深める。
「まあ、いいんじゃねえか? ――お前も、生きてるんだからさ」
そう言うと、彼は目を閉じて少しだけ口の端を上げた。