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光あれば陰

「さあさ! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。火を飲む男に空飛ぶ双子、首切られても死なない女! 東京雑技団をご覧あれ!」

 

 夕暮れ時の河原に、天井の高い大きな小屋がある。小屋といっても、木の枠を組み立てて、外側に布を張った簡素な造りのもの。隙間から、かすかに中の光が漏れている入口の側には、『東京雑技団・上演中』と書いた木の板が立てかけてある。この大正の時分には珍しくなってきた、いわゆる見世物小屋だ。見世物、出し物自体は各所で見られる珍しくないものだが、それゆえお上の目につくと撤去を余儀なくされるため、彼らは巡業する。そのため、小屋は大きくとも、造りは簡素な組み立て自在なものとなる。東京雑技団も例に漏れない。しかし彼らはその名の通り、東京の街を巡業している。だからここでの上演も、久し振りではあったが、初めてのことではなかった。

 

「お、そこのお兄さんどうだい? ずば抜けた踊り子もいるよ」

 

 着物の裾をたくし上げて、岡っ引きのような恰好をしている男が客寄せの言葉を並べ立てている。その口は止まることを知らず、よくもまあ舌を噛まずに喋るものだ。しかし道行く人々は彼に、小屋に目をくれるも、なかなか立ち止まらない。元より興味のある人間は、とうに小屋の中だ。それに気にならないでもないが、日が沈み、長かった影が闇に取り込まれはじめる時刻だ。街には瓦斯灯(ガスとう)がともっているとはいえ、帰途を急ぎたい。

 

「辰(たつ)、交代だ」

 

 小屋から一人の男が出てきた。岡っ引き姿の男よりもかなり背が高く、家の天井に頭をぶつけるのではないかと思えるほどだ。手足も長く、道行く人は彼にちらちら見やるが、目が合いそうになると慌てて顔を逸らした。

 

「伸(しん)か。おめえはもういいのか?」

「ああ。団長が、湊がいるからもう大丈夫だって」

 

 辰と呼ばれた男は、背の高い男を伸と呼ぶ。彼の言葉に肩をすくめると、小屋に目を向けた。そこからは、先ほどよりも賑やかな声と手拍子が聞こえてくる。盛り上がっている証左だ。道行く人々も、これには思わず足を止めて目をやった。

 

「相変わらず人気だな、うちのマドンナは」

 

 辰が茶化すようにいうと、伸はそれをたしなめた。

 

「湊(みなと)に聞かれたらどうする」

「大丈夫だって。今頃あそこん中で踊ってんだからさ」

 

 歓声に興味を持った何人かが小屋の方へ足を向けるのを見て、辰は軽やかに近付き、声をかけながら入口に誘導していく。そしてそのまま、客と一緒に小屋の中へ入って行った。彼らの背中を見送り、伸は小さく息を吐く。しかしすぐに自分が何のためにやって来たか思い出して、見かけた人影に声をかけ始めた。

 小屋の中から、また喝采が聞こえる。

 

 

 

 

 

 長い髪が揺れるたび、飛び散る汗が輝く。しなやかに伸びる腕。やわらかな足取り。それは、見るものを必ず魅了する演舞。舞台の真ん中で踊っているのは、仮面をつけた一人の女性だ。

 手を高く上げ、その場で片足を軸に回り、急にしゃがみ込んだかと思えば飛び上がる。静かな動きから、激しい動きへ。単純な動きから、複雑な動きへ。巧みに組み合わされた踊りは、独特な雰囲気を醸し出す。疲れを感じさせない彼女の動きに、観客たちも疲れを忘れたように手を叩いている。幾何学模様が描かれた仮面で踊り子の表情は見えないが、とても楽しそうに踊っていることは、間違いなく誰にもわかった。

 

「いいぞ、湊!」

「いよッ、花形!」

 

 雑技団の踊り子、湊見たさにやってくる客は多い。むしろ奇術師や獣使い、湊のような踊り子それぞれを贔屓にしている人がおり、彼らが足繁く通ってくれるから、この『東京雑技団』は成り立っていると言っても過言ではない。贔屓のために、彼らは巡業場所を不定期に変える雑技団を追いかけている。たいした熱中ぶりである。

 湊は、観客の声に応えるように動きを大きくした。小屋中に、異様なまでに熱気が立ち込める。

 

「――我らが美しき踊り子、湊に大いなる拍手を!」

 

 小屋の中に響いた声で、観客たちは我に返って、見世物が終わったことを知る。湊はいつの間にか両足をきちんと揃えて立ち、深々と頭を下げていた。観客はみな立ち上がり、大きな拍手を送った。

 

「今日も良かったぞ!」

「また見に来るからな、湊!」

 

 最後の演目である湊の踊りを見て満足した人々は、口々に彼女を褒めながら帰っていく。今、一番贔屓が多いのが湊だ。だから彼女の演目は必ず最後になる。初めは珍しくもないただの踊りと歯牙にもかけなかった人々も、一度目にすれば必ず虜にする。妖しいまでに美しい、それが、湊の踊りだった。

 雑技団の役者たちは、観客が帰っていくとすぐに舞台上の道具を片付け始めた。出し物がすべて終わる頃には、外はすっかり日が沈んでいた。河原は広いだけで、そこに明かりはない。中の光を消していくと、闇に溶け込んでしまう。河原も、水面も、闇もみな、一体化する。表の瓦斯灯の下を行く人々は、暗がりに紛れていく小屋へ目を向けなくなった。

 しかし、外の様子は、中にいる彼らには少しも関係ない。

 

「みんな、今日もお疲れ」

「団長!」

 

 片付けたり、休んだりしている団員たちを労う声。団長と呼ばれた禿頭の男性は、身寄りのない者を引き受け、この『東京雑技団』を取り仕切っている。非常に大柄な彼自身、『見越し』という演目を持っていて、各場所で一度は演ずる。なかなか珍しく、滅多に見られない演目のため、贔屓は必ず通い詰めている。客からも団員からも好かれ、信頼されていた。

 

「すまんな、湊。このところ、いつも出てもらって」

 

 それぞれの役者に声をかけながら、湊に近寄った団長が肩を叩く。湊は仮面をつけたままの顔を上げて、首筋の汗を拭った。

 

「いいえ。出してもらえるのは助かりますし」

「そう言ってもらえると、こっちも助かる」

 

 お前が出ないとお客さんがうるさいからな、と団長は苦笑した。湊は照れたように頭をかく。仮面の下の表情はわからないけれど、褒めると必ずといっていいほどする仕草だ。団員のみんなには、それが彼女の照れ隠しであることが知れ渡っている。

 

「ほんと、湊はマドンナだよ」

「やめてよ。そんなに大層なものじゃないんだから」

 

 辰の言葉に手を振って、湊は布の袋に荷物を詰めた。それを肩に背負うと、団長に声をかける。

 

「団長、それじゃああたしはお先に失礼します」

「おう。弟妹たちによろしくな」

「ええ」

 

 まだ片付けをしている団員に挨拶しつつ、湊は小屋を後にした。最後まで決して仮面を外さなかった湊の背中を見送り、団長は小屋の奥へ引っ込んだ。

 

 

 

 

 

 湊は人通りのない道を足早に歩いていた。顔を覆う仮面をつけたままで、知る人が見れば『東京雑技団』の湊と知れてしまう。しかし仮面を外すわけにはいかない理由がある彼女は、それを避けるため、薄暗い、人気のない道ばかりを選んでいた。

 早く帰らなければ、と湊は思う。残してきた家族が心配で仕方がない。団長や団員は、彼らも連れて住み込めばよいと言ってくれるが、どうしてもそうするわけにはいかない理由があった。どうしてもそれはできないと言うと、身寄りのない者が集まった場所だからか、そのあたりの事情は何も訊かずにいてくれる。彼らの好意に甘えて、湊は口を噤んでいた。ゆえに彼女は、雑技団の中でも唯一といっていい通いなのだ。

 景色が次第に淋しくなってくる。街の明かりは遠く、建物も少なくなってきた。時代が変わり、人々の暮らしは豊かになり、田畑や森は削られ、闇も瓦斯灯で追いやられたが、決してなくなったわけではない。夜になると近付く者のなくなる暗い森へ続く道を、湊は躊躇なく選んだ。背の高い木に囲まれた細い獣道を、慣れた足取りで行く。明かりを避けて歩くうちに、すっかり暗がりに目が慣れていた。木々の隙間から落ち込む冷たい月の光だけが、行く手を照らしている。

 湊は何度か後ろを振り返り、誰もいないことを確認してから歩く速さをあげた。がさがさと草の揺れる音が響き、やがて、視界が開けた。

 森を抜けた先に広がっている小さな広場には、古びた建物がある。元は寺であったそれは、屋根の瓦がほとんど落ち、障子の紙も破れている。年季を感じられるそこから、弱々しく明かりが漏れていた。元は境内だったためか、足元は砂利ばかりで、隙間から顔を出すように申し訳程度の雑草が生えている。

 痛んだ木材を鳴らしながら、気を付けて階段を駆け上がった湊は、廃堂の中に飛び込むと元気な声で呼びかけた。

 

「ただいま、みんな!」

「湊姉ちゃん!」

「おかえりなさい!」

 

 湊を迎える声が、次々に飛び交った。後ろ手に戸を閉める。いくつかの影が湊に飛びつき、湊は笑いながらそれを受けとめた。

 

「あのね、お姉ちゃん。今日は双六をしてたんだよ」

「そっか。楽しかった?」

「うん!」

 

 幼い子供が親にするように、湊の手を引きながら、彼らは色々なことを話す。その日遊んだこと、話したこと。湊は笑顔のまま耳を傾けて相槌を打ち、手を引かれるまま光源のそばへ座った。それでも、幼い家族たちの話は留まるところを知らない。我先にと話しかける彼らの頭を撫でながら、順番に聞いてやる。そして湊は、明かりを見上げた。

 

「鬼火も、ただいま」

 

 そう言った湊の言葉に反応するように、中空に浮んでいる火の玉が上下に動いた。その火は決して、蝋燭や提灯にともっているものではない。天井から吊られているのでも、床から伸びているのでもない。ただ、ふんわりと宙に浮き、留まっている。

 その光に照らされる堂の中には、不思議な形のものがたくさんあった。

 猿のように赤い肌をしたものや、長い毛で全身が覆われた老婆、小さな手で湊の手を握り、残る手に豆腐を持っている童子など、とても湊の弟妹とは思えない者が多い。それどころか、鬼火と呼ばれた明かりのほかにも浮かんでいる火の玉や、長い手足を折り曲げている犬のような生き物など、人間ですらないものがひしめき合っている。彼らは身を寄せ合っていた。その気配が、堂の中に充満していて、湊はそれを一身に浴びて嬉しそうにする。

 

「湊姉ちゃん、お面はずさないの?」

「あ、忘れてた」

 

 豆腐を持った童子が湊の顔を覗きながら問うと、周りのものたちが笑う。湊も照れたように笑いながら、頭の後ろできつく結んでいた紐をほどいた。幾何学模様の描かれたお面が、湊の膝に落ちて、両端の耳の近くに取り付けられた紐が静かに広がる。

 湊が、やや俯けていた顔を上げた。

 明かりに照らされた顔には、目も、鼻も、口も、ない。

 人の顔にあるべきものがない、つるりとした面。

 それが、湊の顔だった。

 

「なんで湊姉ちゃんは、いつもお面をして出かけるの?」

「馬鹿だな、お前。人間には顔があるのが普通なんだよ。な、姉ちゃん?」

 

 童子の話に割り込んだ一つ目の児子が、確認するように湊を振り返る。

 

「そういうこと。人間に紛れてお金を稼ぐには、あたしがのっぺらぼうっていうことは隠さなきゃいけないの」

 

 口のない湊がどうやって喋っているのか、どのように世界を見ているのか、湊自身わからない。けれどこの古びた堂の中では、そんな些細なことは気にかけることではなかった。それらの疑問は、人間と比べるから湧き上がるものだから。

 

「ふうん……大変なんだね」

 

 童子がそういうと、堂の外から軽い音が聞こえてきた。湊が慌てて人差し指を立てて静かにするよう促すと、周りにいたものたちはみな静まり、火の玉は小さくなった。

 しょり、しょり、という音に、湊は立ち上がって外の様子を見に行く。音を立てないように近付く。息を殺して、静かに、静かに。やがて、砂利の上でうずくまるような小さな影を見て正体を知った湊は、安堵の息を漏らした。

 

「なんだ、小豆洗いか。外にいたのね」

 

 禿げ頭の小さな老人は湊の言葉に顔を上げ、声もなくにやりと笑った。手元には、たくさんの小豆が入った桶がある。老人は、無言でそれをといでいるのだった。

 

 

 

 

 

「よぉ、湊!」

 

 肩を叩かれた湊は驚いて振り返る。笑みを浮かべた辰が立っていたので、胸を撫で下ろす。

 

「驚かさないで、辰」

「悪い悪い。そういや、ガキどもは元気にしてるか?」

「ええ。おかげさまで元気よ」

 

 彼女の弟妹という名目で森の奥に隠されている異形のものたちは、誰に見つかることもなくひっそりと暮らしている。否、誰にも見つからないように、こっそりと暮らしている。辰のように彼らを気にかけてくれる者があると、湊は嬉しいと同時に騙していることを申し訳なく思う。けれど家族のことも湊のことも、人間が受け入れられるはずがない。過去に何度も一抹の希望を抱いては、儚い夢を散らせてきた。だから、昔いた場所から遠く離れて、わざわざ東京までやって来たのだ。

 

「そりゃよかった」

 

 気遣いはありがたい。けれど節度を持たなくてはいけない。湊は線を引いて、守らなくてはならない。それは、優しい彼らに離れられたくない気持ちもあったが、それ以上に、行く場所を持たない異形のものたちを守りたい気持ちの方がずっと大きいのだった。

 湊が辰と立ち話をしていると、気難しい顔をした団長が大股で近寄ってきた。

 

「湊、辰、ちょっといいか」

「団長。どうかしたんですか? そんなに怖い顔をして」

 

 話を止めて、団長の話を促す。少し逡巡したものの、団長はすぐに口を開いた。

 

「最近、役者を尾けてる奴がいるらしい。雪乃が被害に遭った」

 

 いったい誰が、と湊が声をあげようとすると、それよりも先に辰が声を荒げた。

 

「なんてふてえ奴だ! そいつはどこのどいつだ、団長!」

「ま、まあ落ち着け、辰」

 

 真っ赤な顔で拳を握る辰の両肩を押さえ、団長がなだめる。

 

「これが落ち着いてられっか!」

「気持ちはわかる。……犯人はまだわからんが、昨日で二回目らしい。湊も気をつけろよ」

 

 辰を無視して、団長は湊に忠告した。雪乃は器量が良いため、雑技小町のあだ名があるくらいだ。前々からそうした輩がいないではなかったが、この度は彼女に限らないそうだ。雪乃に惚れ込んでいる辰は、団長の対応にやや不服そうだったが、ここは確かに湊を心配しなければならない。何せ彼女は、雪乃と違って通いなのだ。

 

「わかりました。わざわざありがとうございます」

「……何かあったら、俺たちに言えよ」

「ありがとう、辰」

 

 他に言葉が見当たらない様子の辰に、笑いながら礼の言葉を返す。いつもならよく回る口も、今はなりを潜めている。けれど辰は誰よりも団員想いで、本当の家族のように大切にしていることを、湊は知っている。そしてそれは、共に住んでいない湊や、まだ見ぬ彼女の家族にまで及ぶことを。

 こんなとき、湊は団員たちのことをこの上なく頼もしく思う。けれど湊とは異なる人間であることを思うと、素直に甘えることもできない。自分が妖怪であることを隠している事実を知ったら、彼らはどんな顔をするのか、湊には想像もできなかったし、あまり、想像はしたくなかった。

 

 

 

 

 

 その日の上演を終えて帰ってきた湊は、いつものように古びた階段を気を付けて上り、隙間から明かりの漏れている堂へ飛び込んだ。

 

「ただいま!」

 

 仮面を外しながら中を見渡すと、見慣れた影がないことに気がついた。しょりしょりと小豆を磨いでいる小さな老人がいない。この前のように、時折外へ出ていることもあるけれど、普段は堂の片隅で小豆をといでいる。湊が、人ならざる彼らを守るために、できるかぎり外に出ないよう言い含めているためだ。彼らも、湊の心配を受け取ってくれている。

 

「ねえ、小豆洗いは――」

「うわあああ!」

 

 そばに座っている一つ目に声をかけたのと同時に、外から悲鳴が聞こえてきた。途端に、堂の中の火の玉はみな小さくなり、他のものたちは隅の方で身を寄せ合う。

 

「誰!?」

 

 慌てて堂を飛び出した湊が見たのは、いつもと変わらず小豆をといでいる老人と、転がるように駆けていく人間の後姿だった。転びそうになりながらも、その人影はすぐさま闇の中に消え去った。

 

「人、間……?」

 

 呆然と呟いた湊の手を、小さな手が握る。はっとして見下ろす。

 

「湊姉ちゃん……」

 

 不安そうな顔をする豆腐小僧だった。振り返って堂の中を見ると、そこでも不安げな空気が漂っている。火の玉たちが、ふらふらと湊に近付いてきて、辺りを弱々しく照らした。

 人間を脅かす、妖怪としての本分を知らない――湊がそうさせた妖怪たち。人間に見つかってはいけないと言い含めていた湊が口にした人間という言葉に、動揺と不安が色濃く現れていた。何としても彼らを守らなくてはならない。そのためには、この居心地が良い場所さえも捨てる必要があるかもしれない。異形のものたちを人の目から隠しおおせる場所は、今の時代に多くはない。探すところから始めなければならないと思うと、少し頭が痛い話だった。

 

「だ、大丈夫! こんな森の奥まで、肝試しに来たんだわ。驚いて帰ったから、きっともう来ないわよ」

「うん……」

 

 豆腐小僧が湊の手を強く握る。湊はそれ以上何も言わず、暗い森の奥をじっと見つめていた。嫌な予感が胸の中で渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 湊は、廃寺にいる小さな妖怪たちのことが好きだ。ずっと一緒にいられたらいいと思う。けれど同時に、深く事情を聞かずに受け入れてくれた『東京雑技団』の人間たちのことも好きだ。これからも彼らと共にいられたらいいと思っている。

 人間が妖怪を受け入れることはできないのだろうか。かつてのように、人間と妖怪が交わり、生きていくことはできないのだろうか。湊には、かすかだがその記憶がある。昔が良かったと言い切るつもりはないけれど、少なくとも悪くはなかった。人間に恐ろしいと思われることはあっても、人間を恐ろしいと思うことはなかった。

 そう考えながらいつもと同じ道を通って森を抜けると、見慣れた建物が湊を待っていた。ところが、いつもなら中から漏れている明かりが見えない。怪訝に思いながら踏み出すと、暗闇が突然明るくなった。

 

「おかえり、湊姉ちゃん!」

「わあ! 驚いた……どうしたのみんな、こんな外で」

 

 急に明るくなったのは、鬼火たち火の玉が現れたからだとわかった。その光に照らされて、いつもは古びた堂の中にいるはずのものたちがみな外に出ているとわかる。

 

「たまには、湊姉ちゃんをおどかしてみようと思って」

 

 無邪気に笑う豆腐小僧の頭を撫でると、湊は辺りを見渡した。星明かりを浴びて、みな楽しそうにしている。これでは、外に出ないようにという言いつけを破ったことを、怒るに怒れない。心配がなくなったわけではないが、彼らも人間を脅かすことなく、ずっと堂の中にいるのではさぞ退屈なのだろう。何か考えてやらなくてはならない。

 

「……それじゃ、大成功ね」

「ほんとに!?」

 

 ため息をついて、仮面の紐をほどきながら頷くと、豆腐小僧は嬉しそうに飛び跳ねた。手に持っている豆腐がゆらゆらと揺れる。落としては危ないからと、笑いながらたしなめる。

 みなと話しながら歩いていると、湊の耳は、不意に物音を捉えた。足を止めて、すぐに静かにするよう、人差し指を立てる。耳を澄ませた。これは――草を踏む、足音のような。

 

「この、化け物め!」

 

 男の声と、何かを叩く音。弾かれたように振り返った湊が見たのは、ひとりの男が木の棒で鬼火を叩いている光景だった。地面に叩きつけられるように殴られている鬼火は、男の持つ棒に燃え移ることもなく弱々しく消えていく。

 

「鬼火!」

 

 湊が声を荒げて男に駆け寄ろうとすると、その声で顔を上げた男は、木の棒を湊に向けて構えた。男の鬼気迫る剣幕に、思わず足踏みする。明るい火の玉だった鬼火は、いまや男の足元でくすぶる小さな火になってしまっている。早く助けてやらなくては、本当に消えてしまう。気持ちが逸る。

 

「こ、この、化け物! お、お前がいつも仮面をしていたのは、化け物なのを、隠すためか!」

 

 化け物、と叫んだ男は、湊に向かって大きく木の棒を振り上げた。動くことができず、視線だけが振り下ろされる棒を追う。

 

「湊姉ちゃんに、ひどいこと言うな!」

 

 そう言った豆腐小僧が、豆腐を抱えたまま男に体当たりする。男はよろけたが、すぐに豆腐小僧を睨み付けると片手で突き飛ばした。

 

「邪魔だ、どけ!」

 

 尻餅をついた拍子に、両手に抱えていた豆腐が地面に落ち、崩れてしまった。そして豆腐と同じように、豆腐小僧の姿も崩れていく。ぼろぼろと消えていく。

 ようやく動くようになった体は、危険を理解しているにもかかわらず、男の方へ――否、豆腐小僧の元へ進もうとする。

 

「ひどい……」

「ひどいのはどっちだ! よくも、これまで俺たち人間をだましてくれたな!」

 

 湊の呟いた言葉に、男の足が豆腐を踏みつぶす。豆腐小僧の姿は、もはや完全に崩れていた。妖怪は、象徴となるものを壊されると消えてしまう。そんな当たり前のことを、湊は、とても久し振りに思い出した。

 やはり、人間と妖怪は相容れないのだろう。

 そう思いながら男が振りかぶった怒りを受け入れようとしたが、衝撃はやってこない。代わりに、男の情けない悲鳴が湊の耳に届いた。

 

「なんだこいつ……ただの、影のくせに!」

 

 そう言いながらも男は一歩も動けずにいて、振り回す木の棒も、どこにも届かない。男の下半身にしがみついている影は、よく見ると泥の塊だった。泥が、意志を持って男にまとわりついているのだ。湊は、すぐにそれがなんであるか思いあたって名前を呼ぶ。

 

「泥田坊(どろたぼう)! 危ないから離れて!」

 

 しかし泥田坊は男から離れず、それどころか男の腕にもまとわりつき、手に持っていた木の棒を取り落させた。男は泥に取り込まれていき、苦しそうに顔をゆがめている。泥の手は、男の顔や頭にまで迫っている。

 

「た、助けて……」

 

 男は、すがるような表情で湊を見ている。のっぺりとした顔のない湊を見て、男が何を思っているのか湊にはわからなかった。眉をひそめたけれど、小さなため息を吐き、口を開く。

 

「……泥田坊、離してあげて」

 

 湊の言葉に、闇の一部と化した泥は一度動きを止めたが、またすぐに男の体を包み始める。

 

「離しなさい!」

 

 再び湊が一喝すると、泥田坊は今度こそ動きを止めてするすると男から離れていった。泥の塊から放されて自由になった男は、茫然とした顔で地面に座り込む。着物や肌には、どす黒い泥がこびりついている。首の周りに手の跡のような泥をつけたまま、男は動かない。

 湊は男に近付いた。

 

「駄目だ湊、近付くな!」

 

 心配で声をかけた一つ目を制すると、湊は男の目の前にしゃがみ込んだ。男は湊に焦点を合わせ、唇をわななかせた。けれども恐怖に声が出ないのか、言葉を発することはない。

 

「二度と、近付かないで」

 

 凹凸のないつるりとした顔が目の前で喋っていることのおかしさに、男の体は震え出す。ゆっくり辺りを見回すと、一つ目の児子や泥の塊、木の枝からぶら下がっている火の玉などがみな男の方を向いていた。それらのものには目がついていないものも多かったが、なぜだか男は、すべての目が自分に向いていると確信した。

 

「今度ここへ来たら、あたしはもう助けない」

 

 湊がそう言うと、男のそばで泥がずるりと蠢く。男はびくりと肩を揺らし、手で後ずさる。

 

「いいわね。ここには、もう近付かないで」

 

 もう一度湊が言うと、男は震えるように首を縦に振りながら、とうとう悲鳴をあげて、這いつくばるようにして森の中へ消えていった。男の姿が完全に見えなくなると、湊はそれきり黙ってしまった。地面にくすぶっていた火は、崩れて土に汚れていた豆腐は、いつの間にか消え去っていた。誰も、湊に声をかけられなかった。

 

 

 

 

 

「団長、先日の件ですが」

 

 さっそく切り出すと、目の前の団長はすぐに頷いた。彼は硬い表情を浮かべている。

 

「団を抜けたい、と言ったな」

「はい」

 

 湊に確認をとると、団長は黙り込んだ。湊の気持ちを無視して留めはしないだろう。それに、噂はすでに、彼の耳にも届いたのかもしれない。

 

 ――『東京雑技団』の湊が、のっぺらぼうだってよ。

 

 数日前から街で持ちきりの話題は、法螺だと笑って流せるものだった。湊が仮面をとり、顔を見せればそれで済むことだった。けれどそれができないばかりに、噂は信憑性を帯びていく。離れていく人もいた。逆に面白がる人もいた。

 

「念のため聞くが、お前が妖怪だっつう噂とは関係あるのか?」

「……はい」

 

 ここまで来れば、隠しても意味がない。湊は頭の後ろできつく縛っていた紐をほどき、仮面を外した。

 

「あたしはのっぺらぼうで、妖怪です。だからこれ以上ここに迷惑をかける前に辞めます」

 

 自分が何と言われても、それは構わなかった。湊が妖怪で、人間から見れば化け物と呼ばれることは重々承知している。けれどそのせいで、雑技団のみなに迷惑がかかるのだけは堪えられなかった。それは湊にとって、あの日、鬼火と豆腐小僧を失ったのと同じくらいの痛みを与える。既にみなが、心ない言葉を投げられていることを、湊は知っている。自分一人がいなくなれば済むのなら、それでよかった。いずれにせよ、妖怪たちを匿っている廃寺も移らねばならないと思っていたところだから、ちょうどいい。

 きっぱりと湊が言い切ると、団長は禿げ頭をつるりと撫でながら笑った。

 

「そいつは困った話だ。妖怪でも何でも、うちの花形がいなくなっちゃ商売あがったりだぜ」

「妖怪がいる方がよくないでしょう」

「お前がいると、不幸でもあんのか? ねえだろうさ」

 

 信じていないのかと疑った湊が不機嫌そうに言うと、団長は笑みを潜めて湊と向き合う。

 

「生きていかれんだろう、妖怪のままじゃ」

 

 団長の言葉に、湊は図星を付かれてどきりとした。

 確かに、闇がなくなっていく世界で、人の目を逃れて生きていくのは大変だ。それは、痛感したばかりだ。

 

「そういう輩は多いさ。一人では、どうしても人間に馴染み切れない妖怪ってのはいるもんだ」

 

 しかし、まるで妖怪を見てきたかのような口ぶりを、湊は不思議に思う。しかもただ妖怪を見ただけではこの言葉にはたどり着けない。妖怪の立場に立つか、あるいは直接話を聞かなければ人間には想像すらできないだろう。なぜなら、妖怪が人間に紛れて暮らすなんて、人間たちは考えもしないからだ。

 

「……そういうやつらを拾って来ちゃあ面倒見てるのが、この『東京雑技団』だ」

「……え?」

「お前ら妖怪のための場所なんだぜ、ここは」

 

 繰り返される団長の言葉に、湊は耳を疑った。人間が妖怪を匿うために雑技団を立ち上げるなど、とうてい考えられることではない。だって人間は、あの男のように、湊たちを恐れ、蔑み、詰る。とてもじゃないが、いくら団長の言葉でも信じられない。

 

「でも、どうして人間が――」

 

 そして湊は気が付いた。人よりも体の大きい目の前の男の演目は、『見越し』であると。その名を持つ、妖怪がいることも。言葉を切って息を飲んだ湊を見て、団長がにやりと笑う。

 

「わかったようだな。俺も当然、妖怪だ」

 

 ただ雇ってくれ、といった湊を雇用した団長。湊が仮面をつけている理由を深くは訊ねない団員。湊がありがたくも疑問に思っていたことが紐解けていく。

 

「でも、あたしは妖怪だなんて一言も言ってないのに……」

 

 なぜ受け入れたのかと問えば、今度は豪胆に笑った。

 

「さあなあ。勘、みたいなもんか」

「そんな、適当な……」

 

 呆れたようにため息をつきながら、湊は諦めて仮面を顔につけた。

 

「どうあっても、あたしを辞めさせるつもりはないんですね」

「おうよ。なんせうちのマドンナだからな」

 

 今まで通り、きっちりと紐を結んだ湊は団長に背を向ける。扉に手をかけて、開くことを躊躇うように動きを止めた。

 

「そういうことだから、湊、お前の弟妹とやらも全員連れてくるといい。みんな、楽しみにしてるんだぜ」

 

 見透かしたような団長の言葉に湊は軽く会釈すると、無言で部屋を出た。扉を閉めると、湊は駆け出す。今日の準備はこれからだ。けれど湊は、愛しい妖怪たちを、今すぐにこの腕に抱きしめたいと思った。

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