目を閉じるまで
男は、彼の背丈ほどもある草をかき分けて進んでいた。否、進んでいるのかどうかはわからない。ここは深い山奥で、背の高い木に阻まれて太陽すら時折しか顔を見せない場所なのだ。男は自分がどこにいるのか、知ることはできない。しかし、それでも構わなかった。なぜなら前でも後ろでも、彼にとっては今いる場所から移動することが最も大切なことなのだった。
汗を拭いながら、男は歩みを進めた。履いているわらじは既にほつれている。貼りつく着物の襟を軽く動かして空気を取り入れる。最初こそ蛇や狸に気を取られもしたが、もはや気になることではなくなっていた。それどころか、男以外の生命を感じることがない。鳥の一羽も見かけないのだ。彼にとってそれは構うことではなかったけれど、さすがに少し不気味さは感じていた。しかしやはり、彼は立ち止まらない。
「……はあ」
声に出して息を吐いてみたが、男の声は深い緑に吸い込まれてしまった。
そろそろ頃合いだろうかと足元ばかり見ていた男が顔を上げると、少し先の方がやけに明るいことに気付いた。足を速めて近付いていく。何か音が聞こえる。がさがさと、草木をかき分ける以外の音だ。何かを求めるように足が速まる。この先には、草や木がまったく生えていない――そう気付いたとき、彼は森を抜けていた。
開けた草原ではない。勿論、人の住んでいそうな小屋があるわけでもない。そこはただの河原だった。切り立った山間から流れる川は結構な急流で、大きな岩にぶつかってはしぶきを上げている。これが男の耳に届いたのだ。河原といっても、森を抜けてすぐに砂利が広がっているだけで、河原の広さは川幅よりも小さい。長いこと足元の悪い山道を歩いてきたから、急に足場が変わって違和感を覚える。
男は河原へ歩み出ると、辺りを見回した。人や動物の形跡はない。川に近付いて覗いてみたが、魚もいない。植物以外の生命がまったく絶えてしまったような山だと男は思った。そこに紛れ込んだ、自分という異質な存在。少し不気味に思ったけれど、彼は気にしなかった。なぜならこれから、その生命は他のものと同様に消えてなくなるからだ。
森を振り返る。遮るものがなく、白い砂利が太陽の光を照り返す河原の明るさと、鬱蒼と木々が生い茂りまるで闇にも思える森の暗さは対照的だ。しばらくは森の様子はわからなかったが、やがて男は巨木を見つけた。二本の古木が途中から絡み合って太い幹を作っている。天に伸びる枝も細いものではなく、人一人の体重くらいなら余裕で支えられそうだった。ようやくここへ来た目的が達成できると思い、男は少しだけ表情を緩めた。台になりそうなものはない。枝の上に登って、そこから飛び下りるしかないだろう。男はわらじを脱ぎ、太い幹にしがみついてでこぼこした部分に手と足をかけながら器用に登った。なんとか登った枝の上で息を整える。手の平の汗を着物で拭きながら、彼は懐から太い縄を取り出した。枝へ何重にも結びつけて、取れないことを確認する。そして大きめの輪を作り、そこに首を通す。地面に目を落とした。草が無造作に生えていて、地面からの正確な高さは分からない。けれど縄の長さを鑑みても、地面に男の足は届かないだろう。それくらいの高さまでは登ってきた。
「――これで、いいんだ」
男はぽつりと呟くと、意を決したように目を閉じて枝から飛び降りた。首の縄に引っ張られて、その身は遠くへ飛ぶことはない。ぐい、と圧迫感が一度男の首を絞めつけたかと思うと、嵐のような強風が男を襲った。
突然の出来事に驚いた男は、思わず自分の首を絞めている縄をぎゅっと掴み、体を硬くした。ぶちりと何かの千切れる音がしたかと思うと、次の瞬間には風が止み、男の体は地面に叩きつけられていた。痛む体をさすりながら目を開けると、枝にしっかり巻きつけたはずの縄が無残にも引きちぎれていた。首には、太い縄の痕がついているようなのに。
「え? あれ?」
一番丈夫な縄を買って来たはずなのに、強い力に任せて引きちぎられている。両手に力を籠めて引っ張ってみても、少しも千切れる気配はない。当然だ。それほど丈夫でなければ、首を縊ることができない。
――しかし、今の強風はなんだ。俺は本当に死んでいないのか。
男の頭の中を、疑問が渦巻く。思わず首から外した縄を握っていると、背後から物音がして振り返る。この山奥に生き物がいるはずない。それは道中で確認したことだ。けれど男は振り返った。決して、風が立てた音とは思えなかったから。そして、驚きに言葉を無くした。
「悪いんだけど、ここで死なれたら俺が死ぬほど迷惑だからよそでやってくんねえかな。……あー、でも俺死なねえか」
燃えるように赤い髪を膝まで垂らした、大陸風の着物をまとった青年がそこに立っていた。否、背は高いが、容姿も声も、中性的でどちらとは言い難い。ただ、彼が見る限りでは男に見えたというそれだけだ。驚いて言葉も出ない男は、口を開いたまま赤い髪の青年を指さす。青年は指をさされて不機嫌そうに眉を寄せた。そして男に一歩近づくと、腰をかがめて地面に座り込んでいる男を覗きこむように顔を近づけた。
「おーい、聞いてるか?」
男はぎこちなく首を縦に振った。青年は「そう」と呟くと背筋をしゃんと伸ばした。先ほどの強風にも負けなかった枝に、強く巻き付けられた縄を、背伸びして取り去る。めいっぱい腕を伸ばしてはいるけれど、相当背が高くなくては届かない位置だ。彼はそれを、難なくこなす。男は異様な姿の青年に対して恐怖を抱き始めていた。とてもじゃないが、まともではない。取り去った縄と男を交互に見ながら、青年がため息を吐く。
「はあ……あんた、ここへ首吊りに来たのか。たまにいるんだよなあ、わざわざこんな山奥まで来て死のうって奴がさ。俺にしてみればいい迷惑なんだけど」
「……あなた、この辺に住んでるんですか?」
「一応な。言っとくけど、俺以外には蟻一匹住んじゃいないぜ」
「じゃああなたはどうして……」
やけに饒舌な青年に、男は勇気を出して問いかけた。青年の方は、男がちゃんと口を利けるとわかると嬉しそうに答えた。その青年の言葉に、男は首を傾げる。生き物がいないことは、彼自身予想がついていた。蟻一匹いないとは思えなかったが、確かに見た覚えはない。けれどやはり、これだけ緑豊かな森に虫の一匹もいないというのはおかしな話だし、何よりなぜそんな生命のない場所であるにも関わらず、青年は住んでいるのかがわからない。鳥も獣も、魚も虫も、この青年を除いて、本当に全ての生命は息の根を止めているのか。男の疑問に、青年は苦笑を浮かべた。
「俺はまあ、人間じゃないもんでね。俺が暮らすのに、他の生き物は邪魔なんだ」
「はあ?」
「あんたたち人間にわかりやすく言うなら――俺は化け物、ってやつだ」
「化け物……?」
「ああ、安心してくれ。俺は別に人間を取って食ったりしねえから。なあに、霞でも食ってりゃ死にはしねえさ」
しゃがみこんで男の肩を叩きながら笑う青年に、彼はどう反応したものか困っていた。青年の言う通り、彼は首を吊るためにこの山を訪れた。誰かに止められたり、邪魔をされたりしては敵わない。いい感じに人気のない場所を見つけたと思ったのに、急に風が吹いて縄が千切れるし、変な青年に絡まれるし、理解が追いついていないのだ。彼の言葉を咀嚼する余裕が、今の男にはない。
「残念だが、俺がいる限り、ここじゃ死ねないぜ。どんだけ丈夫な縄を持ってこようが、どんだけよく切れる刀を持ってこようが。……おら、わかったらとっとと出ていきな」
男の腕を掴んで一緒に立ち上がる。男はつられて立ち上がるが、青年に離された腕は力なくだらりと垂れた。まるで自分から動こうとしない男を見て、青年は腕を組みながら、またため息を吐いた。
「あんたが自分で動かねえなら、ちと面倒だが俺が帰してやる。ちょっと目つぶってな」
「……だ」
「は?」
男の小さな声に、青年が聞き返す。男は顔を俯けたまま、その言葉を繰り返した。
「嫌だ」
「……嫌だっつったか、今」
「お、俺は、ここで死ぬと決めたんだ……化け物だか妖怪だか知らないけど、放っといてください」
「放っとけねえよ。迷惑なんだから」
「あなたに迷惑かけるのが、心苦しくないわけじゃあないですけど、化け物なら人間の死体くらいなんとかできるでしょう……あの川、速いですよね。飛び込んだら死ねますかねえ」
「待て、落ち着け! な? ほら、わかった、じゃあとりあえず俺に話してみろ! あんた、なんで死にたいんだ?」
「……聞いてもどうしようもないでしょう」
「いやいや、人間は、話せば楽になることがあると聞いたぜ。どうせ死ぬ気なら、ものは試し。だろ?」
「……あなた、本当に人間じゃないみたいですね。変な人だ」
千切れた縄を捨てて河原へ顔を向けた男の視界を遮るように、青年が飛び出す。両肩をしっかりと掴んで男の体を反転させ、河原に背を向けて肩を組む。異様に強い力だ。顔を覗き込んで、必死に説得しようとする青年を見て、男は深いため息を吐いた。
青年が何者であるかは、この際どうでもよかった。話して楽になれる程度の悩みなら、男だってここまで追い詰められはしなかっただろう。けれど、話しても話さなくてもどうせ死ぬのだと思うと、彼は青年に話してもいいかという気持ちになった。それに、青年の言い草が本当に人間ではないように思えて、少しだけ興味を持った。男の心境の変化を敏感に察した青年はさらに森の奥へと男を誘導していく。男は半ば引きずられるように歩いた。
「自分で死ぬことさえできないなんて……はあ……俺の人生、ほんとについてなかったな……」
「まだ終わってねえだろ。よくわかんねえけど、あんた若そうだし、諦めんのは早いんじゃないか?」
そう言いながら、青年は大きな木のそばに男を座らせた。少しだけ開けたそこからは、空が見える。男の落ち込んだ気持ちとは裏腹に、すっきりと冴えわたっている薄青の空だ。それがますます彼を憂鬱にさせているのだが、青年はそれに気付かず「空も青いぜ」と慰めていた。男は顔を伏せる。
膝を抱えて座り込む男と、肩を組んであれこれ話しかける青年だが、男はまるで反応しない。青年の言葉に返事しない男だが、無理に青年を振り払って去ろうともしないので、青年はどう扱ったものか困惑していた。彼としては、男にこの場を去ってほしい。無論、命ある状態で、だ。しかし乱暴な態度を取りたいわけではないので、必死に男の心変わりを促している。
「おーい」
青年は男の肩をがくがくと揺らしながら声をかける。もちろん、男からの返事はない。
「なあってば」
鼻先がくっつきそうなほど近くで声をかけても、男は視線をそらすだけで何も言わない。
「……ったく、聞けよ!」
「うわっ!」
眉を寄せた青年が大きな声を出すと、先ほど男を襲ったような強い風が再び吹いた。思わず声を上げて風に転ばされた男は、茫然とした様子で青年を見つめた。すでに風は止んでいる。けれどあの風は、この異様な青年から発せられたものであるようだ。真っ赤な髪が、まだ少しだけ揺れている。
「な、何ですかあんたっ! 今、風……!?」
「俺だよ。さっきも今も、風を起こしたのは。……んなことより、口が利けるんだからちゃんと返事しろっての!」
「それは、どうも……すいません……」
「で、あんたは何で死のうと思ったんだ? つーか、あんたって呼びにくいんだよな……ほら、人間なら名前があんだろ。何て名前?」
「えっと……いえ。これから死ぬ人間に、名前なんて必要ないでしょう」
「あんたが死ぬまでに話す俺が必要としてんの。つーか死ぬなって」
「じゃあ、あなたが適当に決めてください」
驚いて青年の言葉に飲まれた男だったが、すぐ我に返る。このままでは青年の調子に乗せられてしまうと気付き、また膝を抱えた男の言葉に、青年は大きなため息を吐く。しかし、本当に名乗ろうとしない男の様子を見てしばらく考え込むと、思いついたように手を叩いた。
「そんじゃ、賀茂彦(かもひこ)な」
「うわ、変な名前」
「文句あんなら名乗れや!」
「いや、いいです、孫彦でも何でもいいです」
「賀茂彦だよ」
「桃彦?」
「賀茂彦! 聞く気ねえな!? あんた死にたいって嘘だろ!」
「ほんとですよ、死ぬほど死にたいです」
「もう滅茶苦茶じゃねえか……」
男の隣で頭を抱えながらしゃがみこんだ青年を見て、男は弱々しい笑みを浮かべた。そしてようやく顔を上げると、口を開いた。
「あとで時間返せなんて言わないでくださいよ。聞くだけつまらない話ですけど」
「賀茂彦……!」
「賀茂彦じゃありません」
「お前が適当に決めろっつったんだろうが」
青年の言葉を無視して、賀茂彦は淡々と話しはじめた。あまりにも必死な青年の姿に、親しみのようなものを覚えたからかもしれない。賀茂彦が話し始めると、青年はすぐに口を噤んだ。
「俺の家はね、農家だったんです。昔からずっと同じところで稲を育て、野菜を作ってきた。両親は、毎日朝から晩まで汗水たらして働いてましたよ。もちろん俺も、子供の時からずっと手伝ってました。俺が子供の頃は、祖父も一緒でした」
賀茂彦は、話しながら両手を広げた。その手は大きくて、肉刺だらけの無骨な手だった。よく日に焼けた肌も、彼が外で働く人間だったことを表している。
「だけどね、うまくいかなくなっちゃったんですよ。田舎の方だったから、普段から自分のとこの作物とよその作物と交換して暮らしているようなところだったんですけど、開国と文明開化の波からは逃れられなかった。土地は取り上げられるし、お金を使えと言われるし、若者たちは、故郷を捨てて街へ流れて帰ってこない。今じゃどこにでもあるような、すっかり寂れた田舎になっちまったんです」
大きなため息を吐くと、賀茂彦は抱えた膝に頭を埋めた。声がくぐもったけれど、青年はちらりと賀茂彦の方を見ただけで相槌の一つもうたない。賀茂彦は気にしていないのか、少しだけ顔を上げ、息を吸って話の続きを始めた。
「かくいう俺もね、街に憧れて出て行った口なんです。いつか帰ってくるから、なんて心にもないことを言って、年老いた両親を置き去りにして。……もちろん、世間はそんなに甘くない。急激に発展する社会で仕事は多くあったけれど、どれもこれも、俺は門前払い。大人しく田舎に帰れって言うみたいにね。それでも必死に仕事を探したんです。何でもやりますからって。その間、一度だって両親に手紙を書いてやったことはありません……いえ、何も、書けなかったんです。結局、仕事は見つからず、俺はようやく田舎に帰る決心をしました。一年が経っていました。ちゃんと両親の後を継いで畑をやれば、裕福ではなくとも食っていけます。それに、幼馴染が親の世話をするために残っていたから、あいつと所帯を持とうとも思って。久しぶりの田舎は良かったですよ。やっぱり俺には、せかせかした街よりも、のんびりした田舎の方が性に合ってると感じました。……だけど、故郷へ帰った俺を待っていたのは、いつものように汗を流している両親でも、笑顔を絶やさない幼馴染でもなかった。俺を待っていたのは――うちのそばに増えた二つの墓と、誰もいないあいつの家でした」
賀茂彦は言葉を切ると、黙り込んだ。賀茂彦が黙ると、辺りは静寂に包まれる。青年が口を開くことはないし、その青年曰く他の生物がいないというこの森では風が木を揺らす以外の物音は立たない。賀茂彦にはいっそその静けさこそ煩わしく思えて、顔を上げた。けれど何をどう言葉にしたものか悩み、結局また顔を膝に埋めた。
「たった一年です。たった一年で、俺は全てを失ってしまった。夢も、家族も。街へ出ても俺にできることはないとわかっていたし、かといって両親が手入れしなくなった土地は荒れ放題で俺一人じゃどうしようもないし……しばらくはね、それでも頑張ったんですよ。雑草を抜いて水を引いて、土を耕して種をまいて。だけど駄目だった。土の栄養がなくなったのか、芽も出なくって。一年くらいそうしてたんですけど、なんだか急に何もかもがどうでもよく思えてきて……もう、疲れたんですよ。俺、これ以上生きてる意味あるのかなって思って――ここに来たんです」
馬鹿みたいでしょう、と賀茂彦は笑った。青年はやはり何も言わない。賀茂彦はちらりと青年に目をやると、すぐ自分の膝に戻してため息を吐いた。
「よっこらしょ、と」
「おい、どこ行くんだ」
突然立ち上がった賀茂彦を見上げながら、ようやく青年が口を開く。着物の尻を叩きながら賀茂彦が青年を見下ろす。
「どこって、死ねそうな場所を探しに」
「この森でか!?」
「そのためにここに来たって言ってるじゃないですか」
「待て、早まるな賀茂彦」
「賀茂彦じゃないです」
「お前が適当につけろって――このやりとり何回目だと思ってんだ!」
背を向けて立ち去ろうとする賀茂彦の肩を青年が掴み、留める。賀茂彦は嫌そうな表情を浮かべたが、青年は屈むようにして彼の顔を覗きこみ、必死の説得を続けた。
「街に出るだけがすべてじゃないし、田舎で畑を耕すだけもすべてじゃない。田舎の過疎が進んでるっていうんなら、どっかで跡継ぎを探している家に入ればいいし、港の方なんかどうだ? 外国の船が行き来してるって話じゃねえか。仕事あると思うぜ」
「……あなた、この山に住んでるんですよね」
「ん? ああ」
「長いんですか」
「そうさな……転々としてるから覚えちゃいないが、ここはもう、かれこれ三、四百年くらいか。いや、もっとか?」
「なんで引きこもりが外のことを知ってるんです」
「風に聞いた」
「それを言うなら、風の噂に、でしょう。他に誰もいないのに……」
「だから、風に聞いたんだよ」
足を止め、訝しげに青年に問う賀茂彦はその返答に眉を寄せた。偶然生き物のいないこの山に住んでいるだけの人間なのだろうと思っていたから、ようやく綻びを見つけたと思ったのに、どうも話がかみ合わないのだ。青年の言っていることは事実だ。田舎へ帰ったとき、賀茂彦や幼馴染みの一家は駄目だったが、余所の家ではまた年老いた主が畑を耕していた。それに、港で力仕事や雑用する日雇いもそれなりにある、と街で聞いたことがある。だからそれを知っている青年が、山を出ていないというのは、嘘だと思ったのに。
青年が浅く息を吐くと、急に強い風が吹き付けてきた。賀茂彦は足踏みをし、両手で顔を覆った。先の言葉を信じるなら、これで三度目。隙間から青年を見ると、彼は強烈な風に吹きつけられているにも関わらず、そよ風も吹いていないかのように動かず立っていた。赤い髪だけが揺れている。
「俺が直々に山を降りてもいいんだが、そうすると与える影響がでかすぎてな。かと言って山にいるだけじゃつまらないし、お前みたいな人間が紛れ込んできたときに困る。便利なもんだぜ、風は。どこにだって行けるんだから」
ぴたりと風が止むと、青年はそう言った。賀茂彦はとても信じられず、青年をじっと見つめた。青年は賀茂彦が黙っている理由を考えもせず、これ幸いと説得を再開する。
「つーわけだから、お前がこれ以上死のうとしても俺が阻止するし、どうせ俺が何も知らないんだろうと突き放すつもりなら、それはお門違いだと言っておくぜ」
「……あんたは」
「ん?」
「あんたは、一体何なんですか……?」
疑念と、恐怖と、好奇心と、いろんな感情をないまぜにした目で賀茂彦は青年を見た。
ようやく、正しく己へ向けられる眼差しに、青年は満足げに笑みを浮かべる。それから天を仰ぐと、すん、と息を吸った。ゆっくりと賀茂彦に向けられた青年の顔。その瞳は、血のように赤い。男は――こわかった。
「俺は、燭南院(しょくなんいん)。元々は燭陰(しょくいん)っつう大陸の化け物だが、いろいろとわけあってここにいる。得意なことは……そうだな、風を吹かせたり、昼と夜を生み出したりすることだ」
呆然と燭南院の顔を見つめていた賀茂彦は、唐突に笑い出した。
「は……はは……自分で化け物と名乗るなんて、本当に……あなたは可笑しい人だ! いや、人じゃあないのか。大陸ってことは、中国の妖怪ってことですよね。はは、そりゃあ俺が死のうとしても死ねないわけだ! あははは!」
「……おーい、賀茂彦。大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。……これ、今まさに死のうとしている俺が見ている幻とかじゃあないですよね?」
「当たり前だっての。お前はいい加減現実逃避を止めろ」
「現実から逃避してなきゃ、誰がこんな山奥に来るんですか!」
「あっ、とうとう本音が出たなこいつ!」
燭南院の言葉にもどこ吹く風とばかりの賀茂彦は、もはや、はじめまとっていた陰鬱とした雰囲気を持っていない。燭南院はそれに気付きつつ、何も触れない。一通り笑って満足したのか、賀茂彦が穏やかな表情で青年を見返す。
「それにしてもあなた、変な名前なんですね。燭南院、でしたっけ? 通りで名付けも下手なわけだ。納得しましたよ」
「おい待てこの野郎」
「しかも、昼と夜を生み出すって、どこの神様ですか。意味が分からないったらありゃしない」
「信じてないな?」
「普通は信じないでしょう」
「お前……普通だったのか……」
「うるさいですよ、大陸妖怪」
「お前、やっぱり死にたいって嘘だろ!」
燭南院がいちいち賀茂彦の言葉に噛みつくと、賀茂彦は呆れたようにそれを受け流した。確かに人ならざる力を持っているようだが、言葉遣いや賀茂彦に対する反応などは人間の青年となんら変わりないものだ。言葉を交わすうち、賀茂彦は燭南院に友人のような親しみを覚え始めていた。
しかし賀茂彦の心情を知らない燭南院は、ようやく自分ばかり叫んでいることに気付いて深呼吸で息を整えた。化け物の威厳も何もあったものではない、と気が付いたらしい。
「古くに言う。燭陰が目を開ければ昼となり、閉じれば夜になると。息を吸えば夏になり、息を吐けば冬になるとも。要はそれだけ強大な力を持ってるっていうことなんだが、実際俺は夜の間しか目を閉じないようにしてる。お前たち人間みたいに瞬きをしないんだ」
「瞬きをしないって? 御冗談を」
「本当だって」
「じゃあ証拠を見せてくださいよ。目を閉じたら、夜になるんでしょう?」
「なるけど、まだ夜には早い」
「ほらできない」
「できるっつってんだろ。今は駄目だ」
「できないときの常套句ですよ、それ」
「喧嘩売ってんのか」
「まさか」
真顔の賀茂彦をじっと見つめて、燭南院は頭をかいた。彼が冗談を言えるほどに前向きになれたのならいいが、表情を見る限りそうとも言えない。
賀茂彦には、今がいつ頃であるか分からない。空が白み始めた朝早くに山へ入り、それから何も考えず黙々と歩を進めてきたからだ。しかしずっと山にいた燭南院にはだいたいの時刻がわかっている。太陽の位置から考えても、まだ夕刻の少し前といった頃だ。暗くなるにはいくら何でも早すぎる。風を吹かせただけではなかなか信じてくれない賀茂彦に面倒くささを感じながらも、燭南院は何とか彼を説得して人里へ返したいと思っていた。あと一歩で押し切れるだろうことがわかっているだけに、その一歩がもどかしい。
「あと半刻もすればできるけど……俺としては、その前に信じてもらって、さっさと帰ってもらいたいんだがなあ」
「信じても帰るとは言ってませんよ」
「帰るんだよ。俺が帰すんだから」
むっとしながら返す賀茂彦に、更にむっとしながら燭南院が返す。何度やっても堂々巡りになるようだから、賀茂彦が逃げ出さないうちに無理矢理でも送り返すのがいいだろう。そう思って、燭南院は軽く息を吸った。それを見た賀茂彦が「あっ!」と呟くと素早く袂で燭南院の口を覆った。
「てめ、何しやがる!」
「無理矢理帰そうとしたでしょう! そんなことされちゃあ余計帰らないですからね!」
もごもごと抵抗する燭南院だが、賀茂彦の方も必死だ。結局、先に降参したのは燭南院の方で、どかっと地面に腰を下ろした。ついでとばかりに、賀茂彦の着物の裾を掴んで彼も無理矢理座らせる。賀茂彦は不服そうな顔をしたけれど、抵抗はしなかった。
「あんたは、どうやったら死ぬのを止めようと思うわけ?」
「ああ……馬鹿馬鹿しくて、死のうと思ってたことなんて忘れてましたよ」
「お、じゃあ帰ってくれるか?」
「帰る場所なんか、どこにもないですよ。帰りたくってもね」
「……賀茂彦」
「賀茂彦じゃないです」
話している内にまた膝を抱えた賀茂彦は、燭南院の方を見ない。燭南院が化け物であろうがなかろうが、本当はどうでもいいのだ。
「……やれやれ。いいですよ、大人しくここ以外の場所で死にますから。ついでに、どこかいい死に場所まで飛ばしてくれると助かるんですけど」
「生きようとは、思わないのか」
「……思えないですよ。生きているだけでも惨めなんだ。これ以上の恥を晒すより、さっさと死んで輪廻でも巡るべきなんです。……ああ、でも、親不孝の俺には無理かな」
立ち上がって燭南院を見下ろす賀茂彦は、また当初の雰囲気を纏い、諦観の目をしていた。燭南院はしばらく黙ってその目を見つめていたが、やがて自身も立ち上がると賀茂彦と向き合った。
「お前は、まだ死なすのは惜しい。あと一年、生きてみろ。それでも死にたきゃ好きにするがいいさ。ただしこの一年は、絶対に俺がお前を死なせない。どこに行こうがお前が死のうとしたら阻止してやる。――生きろよ」
「ちょっと、」
燭南院の一方的な言葉に、不満そうな声を上げた賀茂彦を包んだのは今までの比にならない強風と、星明り瞬く闇だった。そんなわけはない。いくら山の中だからといって、日が暮れる前に星が空にのぼるなんて。
「あんた、本当に……!」
じりじりと風に押されて後ずさる賀茂彦が、かろうじて目を開けて燭南院の方を見ると、彼はすっかり両の瞼を閉じていた。突然訪れた夜の闇に目が慣れず、燭南院の表情まで見ることはできない。けれど賀茂彦は何となく、今頃彼が勝ち誇ったような笑みを浮かべているであろうことが想像できた。想像して――少しだけ、笑った。
その瞬間、賀茂彦の足が地面から離れ、風に乗って一気に飛ばされていった。賀茂彦の姿がすっかり見えなくなった頃、ようやく燭南院が目を開ける。瞼が持ち上がっていくにつれて短い夜が明けていく。もはや、闇夜の帳も星々の光も見えなかった。
その日、小さな長屋の一室で一人の物書きが死んだ。食うのがやっとという売れない物書きだった彼の著作で、唯一売れたと言えるのは処女作だけだった。それでも男は、年老いるまで物語を紡ぎ続けた。手記風に綴られた奇怪な物語の代表作は、『目を閉じるまで』と名付けられていた。男が死んでいるのを最初に見つけた長屋の住人は、彼の眠ったように穏やかな死に顔を見ながら、この男は目を閉じる時まで、確かに生きていたのだろうと思った。