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第三話 不思議な転校生

 天宮くんの寝不足問題が、彼に恋をしている藤田さんの生き霊が原因だったと判明し、マガツヒが彼女の生き霊を食べてしまうことによって解決してから数日。天宮くんも藤田さんもすっかり元気な様子で、少しだけ明るくなった藤田さんは、席替えして同じ班になった天宮くんと時々話しているようだ。
 私としては二人が元気ならそれでいいのだけれど、家に帰るたび、マガツヒに「もっと美味い悪霊を寄越せ」と言われるのがうるさくて仕方がない。最近は私のおやつを取られてしまうので、私にとってもちょっと死活問題である。
 弟の司と一緒に家を出て、学校に向かう。小学校と中学校は比較的近い。中学校のほうが少し遠いから、途中で横断歩道を渡ってわかれる。

 

「つん、ちゃんと真面目に授業受けるんだよ?」
「わかってるって。……それよりおねえ、なんか疲れてない?」
「え? そんなことないよ、大丈夫」
「うーん……ならいいけど……」

 

 司とわかれようとしたところで、急に呼び止められる。一瞬、マガツヒのことが頭をよぎってギクリとしたけれど、気付かれていないはずと思い直してごまかす。

 

「ありがとね。つん」
「ん。……あ、おはよ! じゃあ行ってくる!」
「はい、行ってらっしゃい」

 

 友達に声をかけられて、駆けだした背中を見送る。小学六年生だから、背伸びをしはじめる頃ではあるのだけれど、まだまだかわいいものだ。弟がいる友達は、すでに反抗期で喧嘩が絶えないと言っていた。優しくて元気な司が反抗期になったら、お母さんより私のほうがショックを受けるかもしれない。
 通学路を歩いていると、中学の校門近くで佇んでいる人影が目に入った。他の生徒は校舎へ入っていくのに、学ラン姿の男子生徒はじっと立ったまま、何かを見上げていた。彼の横を通る生徒は不思議そうに見るけれど、結局声をかけずに過ぎていく。うちの学校の生徒なのだろうけれど、どこか不思議な雰囲気だ。横目に通り過ぎるとき、彼の視線の先にあるものが、春には満開になる桜の木だと気付いた。
 教室に入り、藤田さんやクラスメイトに挨拶をして、自分の席につく。奈保は今日も朝練のようだ。ホームルーム直前に教室へ入ってきて、「英語の予習見せて!」と頼んできた。呆れながらノートを貸してあげると、少し早めに担任の曾根崎先生が入ってくる。

 

「ちょっと早いけど、ホームルーム始めるけん座れー」

 

 慌ただしくみんなが席についたことを確認すると、先生はいつも通り「おはよう!」と元気よく挨拶した。バラバラだけど、朝にしては比較的元気に「おはようございます」が返ってくるのを確かめて、満足げに頷く。

 

「急だけど、今日から転校生が来とる。びっくりしたじゃろうけど、転校生のほうがびっくりしとると思うけぇ、みんな仲良くしてあげて、わからんことは教えてあげるように……はい、静かに静かに」

 

 突然の一大イベントにざわつく教室をなだめてから、先生は廊下のほうに顔を向けた。

 

「入ってきてええよ」

 

 その言葉に、クラス中が息を潜める。みんなの視線がドアに集中していた。
 ゆっくりと開いたドアから見えたのは、学ラン。
 教室に入りドアを閉めた人影は、どこか艶やかな色の髪をしていた。
 誰かが「あ」と声をもらす。心の中では、私も声をもらしていた。
 教壇の隣に立った転校生は、大人びた笑みを浮かべる。

 

「四方谷(よもや)春(はる)です。東京から引っ越してきました。広島へ来るのははじめてなので、色々と教えてください。よろしくお願いします」

 自己紹介の言葉選びも、会釈も、どこか洗練されている。広島市内ですら都会に思えるこの街に、突然やってきた大都会東京の人。色々と訊いてみたい気持ちよりも、困惑する気持ちのほうが強かった。クラスのみんなも同じようで、いつもならすぐに悪ふざけする男子も黙っている。

 

「四方谷の席は、一旦一番後ろの――」
「先生。僕、目が悪いので前の席がいいです」

 

 言われてはじめて、教室の一番後ろに、誰のものでもない机と椅子があることに気付く。しかし四方谷くんは先生の言葉を遮った。

 

「え? そうか。それじゃあ……」
「はいはい! センセー、俺の席と交換しよ!」
「ダーメ。お前は後ろだと真面目に受けんじゃろ」

 

 最前列に座っている男子が勢いよく手をあげたが、却下される。あれだけ下心丸出しなら仕方がないと思う。先生は悩みながら教室を見回す。

 

「うーん……青山、変わってくれるか?」
「いっすよ。班変わったら、今週掃除当番なくなるし」

 

 ずいぶんな理由には違いないけれど、青山くんの授業態度は悪くない。先生に言われて、青山くんは荷物と教科書を持って後ろに移動した。

 

「じゃあ、四方谷はそこの席でええか?」
「はい。ありがとうございます」

 

 四方谷くんは鞄を持って、空いたばかりの席に移動した。座りながら左右の席の子に「よろしく」と挨拶をし、最後に、後ろの席に座っている私を振り返って、笑顔で「よろしくね」と言った。なぜだか声が出なかったので、小さく二度、頷いた。
 それからは通常のホームルームで、プリントが配られたり、テストが近いことを言われたりした。ホームルームが終わると、曾根崎先生は改めて四方谷くんを助けるように言って、教室を出て行った。
 すると途端に、興味津々なクラスメイトたちが四方谷くんの席に集まってくる。すぐ後ろの席なので、急に狭くなって肩身も狭い。誰かが机にぶつかって、鞄につけているマガツヒのキーホルダーが音を立てた。

 

「四方谷くんって、東京のどこ住んどったん?」
「東京って言っても、都心じゃないよ。田舎のほう」
「お父さんの仕事でこっち来たん?」
「まあ、色々とね」
「どのへんに住んでんの?」
「住所は覚えてないけど……お寺とか神社が近くにいっぱいあるとこ」
「この辺はだいたいそうじゃけえ、それだけじゃわからん」

 

 怒濤の質問攻めにも戸惑う様子はなく、四方谷くんは次々と答えている。東京からの転校生で、しかも芸能界にいてもおかしくないような整った容姿。少し長い前髪も右側に寄せて、左側は耳にかけている。普通なら切ればいいのにと思う髪型も、四方谷くんには似合っていて誰もからかわない。
 この様子だと、クラスどころか学年の有名人になる日も近そうだ。
 そう思いながら見ていると、彼と席を変わった青山くんが輪に加わっていた。

 

「四方谷ってさ、今朝、校門とこの桜見てたろ?」
「うん。あれ、やっぱり桜なんだね」

 

 言われて思い出す、今朝見た光景。通り過ぎる生徒たちが不思議そうに見ていたのは、四方谷くんだったのだ。言われて見れば、すらっとした立ち姿や艶やかな髪などは確かに彼のものだったと思う。他のクラスメイトたちも、口々にそういえばと手を叩いている。

 

「咲いてないのに、ようわかったな」
「桜、好きなんだ。大きい木だったから、咲くと綺麗だろうね」
「まあ、結構すごいぜ。……四方谷って、春生まれだったりする?」
「そうだよ。と言っても、早生まれの三月だけど」

 

 すでに打ち解けつつある四方谷くんを素直にすごいと思いながら、授業の準備をする。ホームルーム後の授業はすぐだ。一時間目のチャイムが鳴り、集まっていたクラスメイトたちは慌てて席について教科書とノートを取り出した。私も四方谷くんと話してみたいけれど、しばらくは難しそうだ。同じ班だから掃除の時間なら少し話せるかもしれない。

 

「……騒がしくしてごめんね」
「え? あ、ううん。大丈夫だよ」

 

 けれど、先生が来るまでの短い時間、四方谷くんはわざわざ振り返って話しかけてくれた。

 

「名前、訊いてもいい?」
「うん。私、千代まか。同じ班だから、困ったことがあれば訊いてね」
「千代さんだね。ありがとう、よろしく」
「こちらこそよろしくね」

 

 四方谷くんは優しそうな笑みを浮かべていたけれど、こちらをじっと見つめる目は、不思議と光の加減で赤く見えて、少しだけ、怖いと思った。
 その日、四方谷くんはとにかく人気者だった。
 休み時間のたびにクラスの人が集まって彼を質問攻めにする。別に聞いていたわけではないのだけれど、すぐ後ろの席に座っているから、色々と彼の情報が集まってしまった。
 四方谷くんは今、親戚の家でお世話になっているらしい。家族は一緒ではないみたいだけど、さすがに詳しく訊くのははばかられたようで、事情はわからない。部活にも誘われていたけれど、前の学校でも部活には入っていなかったらしく、帰宅部になるそうだ。お寺や神社が好きらしく、この街の寺社仏閣を巡りたいとも言っていた。華のある容姿から想像できない、意外と渋い趣味だ。先生からも気にかけられていて、わからないところがあればいつでも訊くように言われていたが、東京の学校が進んでいるのか、彼の頭が良いのか、授業では特に困っている様子はなかった。むしろ隣の席の子が教えてもらっていた。
 給食が終わり、昼休み。やっぱり四方谷くんの周りに人が集まってきたため、とうとう奈保の席まで避難した。

 

「転校生、すごい人気じゃねぇ」
「ほんと。でもまあ、珍しいもんね。奈保が興味ないほうが意外かも」
「あたしはああいうスカした感じは好かんけぇね」

 

 確かに、奈保の好きな芸能人を聞く限り、四方谷くんはタイプが違う。
 昼休みともなると、騒ぎを聞きつけた他のクラスの野次馬も増えて大変な人気だ。どこか他人事のような、呆れたような奈保の言葉にも共感できる。

 

「天宮とはまたタイプが違うイケメンやね。天宮が正統派王子なら、四方谷はミステリアスな男って感じ」
「おいおい、瀬尾。勝手に人を王子にしないでくれよ」
「あれ、天宮やん。なんか用?」
「奈保ってば」

 

 何か自分なりに分析しているらしい奈保の言葉に、話題の天宮くんが登場して突っ込みを入れる。好き勝手言う割に、当人への態度がひどいので思わず咎める。

 

「気にしてないよ、千代。それより瀬尾、部活の人が呼んでる」
「え? あ、サンキュー! ごめん、まか。ちょっと行ってくるけん」
「うん、行ってらっしゃい」

 

 天宮くんと二人、奈保を見送る。今自分の席へ戻るわけにもいかない。このまま奈保の帰りを待つか、あるいは図書室でも行くか。悩んでいると、まだ自分の席に戻っていなかった天宮くんに話しかけられる。

 

「千代ってさ、ああいうのがタイプ?」
「えっ!? いや、全然そんなことはないけど……」

 

 あまりにも急な話題に、声が裏返る。まさか天宮くんからこんな話を振られると思っていなかったから、驚いてしまった。当の本人は「そうなんだ」とあくまで普通の態度。単なる雑談だったのだろうか。

 

「でも、四方谷ってさ」
「うん」
「なんか……不思議な感じのやつだよな」
「……うん。そうだね」

 

 何がとは具体的に言えないけれど、都会っ子だからなのか、転校生だからなのか。あるいはもっと他の理由があるのかわからないけれど、全体的に不思議な感じを受けることに違いはない。天宮くんの言葉に頷いて、奈保が戻ってくるのを待った。
 昼を過ぎると少し落ち着いて、帰りのホームルームも終わり、掃除の時間になると、クラスメイトたちはすっかり打ち解けた四方谷くんに「また明日」と挨拶をして帰っていった。

 

「四方谷くん、疲れてない?」
「はは。大丈夫だよ。ありがとう、千代さん」

 

 教室を掃除しながら、四方谷くんに声をかける。本当なら普通に話してみたかったけれど、それより今日一日でずいぶん疲れたのではないかという心配のほうが先立ってしまった。雑巾がけの終わったところへ机を運びながら、四方谷くんは笑顔で答えた。

 

「そういえば四方谷くん、お寺とか神社とか好きみたいだけど、この辺で回るなら迷子にならないように気を付けてね。結構道が入り組んでるから……」
「ああ、うん。みんなにも言われたよ。そんなに多いの?」
「東京にどれくらいお寺とかがあるかわからないけど、県内では結構多いと思うよ」
「そうなんだ」

 

 机と椅子を並べ直して、曾根崎先生に確認してもらうと掃除は終わりだ。部活のある子は部活へ向かう。班で帰宅部なのは私と四方谷くんだけだったので、一緒に昇降口まで向かった。

 

「千代さんの家は、どっちのほうなの?」
「私はあっち。近所に大きいお寺があるんだけど……」
「うーん。多いよね。でも、僕も同じ方向だから、途中まで一緒に帰ってもいいかな?」
「うん、もちろん!」
「ありがとう」

 

 まだ広島へ来て間もないという四方谷くん。住所や近所の寺社仏閣の名前は覚えていないけれど、道は覚えているらしい。途中まで一緒なら、少しは彼の好きなお寺や神社を案内してあげられそうだ。

 

「四方谷くん、桜が好きなんだよね?」
「うん」
「それじゃあ、この街で一番有名なお寺には行ったほうがいいよ。桜の有名なところでもあるから」
「どこ?」
「ロープウェーで上がったところ。ここからだと見えないかなあ……鐘撞き堂と、大きな岩があるんだけど」

 

 歩きながら、この街について説明する。寺社仏閣も多いけれど、桜の名所も結構多い。春になればあちこちで桜が咲いて、場所によってはライトアップされて夜桜を見ることもできる。今は桜の季節ではないけれど、見ておいて損はない。通学路から見えるお寺や神社は少ないけれど、一本か二本、道を入ればどこかにつながっている。四方谷くんに案内していると、彼はしばしば立ち止まって、興味深そうに道の奥を覗いていた。さすがにあまり寄り道をするわけにはいかないので先を促したけれど、今までだったら一緒に行っていたと思う。……どうしても、寄り道をすると悪霊に遭遇する可能性を考えて怖くなってしまうのだ。それもこれも、悪霊を呼び寄せるマガツヒのせいなのだけれど、彼との契約解除ができない今はどうすることもできない。

 

「千代さん、詳しいね。ずっとこの街に住んでいるの?」
「うん。生まれたときから」
「そうなんだ……」

 

 四方谷くんの言葉に、もしかして引っ越しが多いのかもしれないと思う。何か考え込んでいるような間があった。

 

「あ。私、こっちのほうなんだ」

 

 曲がり角で立ち止まる。道の角には、この先にあるお寺の名前が刻まれた小さな石碑が立っている。四方谷くんはじっとそれを見つめた。

 

「もしかして、近所の大きいお寺ってここのこと?」
「そうだよ。家はもうちょっと先だけど」

 

 また明日と言いたいところだけど、何か考えているようだったから、声をかけていいものか迷う。そうして待っている間に、四方谷くんは体の向きを変えた。

 

「せっかくだから、見て行こうかな」
「時間、大丈夫? 家の人、心配しないかな……」
「大丈夫だよ」

 

 四方谷くんがお世話になっている親戚の家がどのあたりかわからないけど、うちだって学校から近くはない。引っ越してきたばかりの四方谷くんを心配するのではないかと思ったけれど、当人に言われてしまえば私が止めることもできず。結局、そこまで一緒に行くことになった。

 

「このお寺って、御守とか扱ってる?」
「あると思うけど、普段はあまり人がいないから、土日とかお祭りの時とかに行ったほうがいいよ」
「ふうん……。この辺のお寺や神社って、だいたいそんな感じ?」
「うん。大きいところは平日でも普通に人がいて売ってくれるけど……」

 

 御守と言われても、普段はあまり手を出すものではないから、ぱっと思い出せない。けれどたいていは窓口のようなところで巫女さんとかが取り扱っている印象なので、そうなると人がいるところに限られる。色々なお寺や神社があるから、御守や御札も色々なものがあるのだと思う。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんに健康第一の御守をあげたくらいで、他には自分で買った覚えがない。最近は御朱印を集める人が多いとテレビで見るけれど、四方谷くんの興味はそういうものにはないのだろうか。
 ふと、彼の言動を考えてみると、不思議に感じる。別に寺社仏閣巡りが好きなことは不思議ではないけれど、彼の口から聞くと、なぜだか不思議に思えてしまうのだ。

 

「千代さんは、どこかで御守いただいたことある?」

 

 聞き慣れない言い回しに、巫女さんたちが御守を渡してくれる時と同じ言い方だと気付く。売るとか買うとか、そういうものではないのだ。四方谷くんの言葉から、彼が敬意を持って寺社仏閣巡りをしていることを察する。

 

「昔、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんにあげる時に。最近は全然ないなぁ」
「そっか。まあ、そのほうがいいかもね」
「……四方谷くん、何か御守探してるの?」

 

 本人が言わなかったことだから、あまり家庭の事情とかに踏み込むべきではないのだろうけれど。わかっていても、好奇心が抑えられなかった。ひょっとして、自分か、あるいは誰かのために御守を探しているのだろうか。

 

「……千代さんは、何か御守みたいに大切にしているものってある?」

 

 けれど、四方谷くんは質問には答えてくれなかった。かわりに、質問を投げかけられる。考えてみるけれど、大切なものは大切だし、かといって御守のように持ち歩いたり、頼ったりすることはない。たぶん、四方谷くんの求める答えではないのだろうと思って、首を横に振った。

 

「そう……。休日に、また色々見てみるよ。教えてくれてありがとう」
「あれ。寄っていかないの?」
「うん。そういえば、今日は早く帰るように言われてたことを思い出したから」

 

 お寺の門が見えてきたあたりで、四方谷くんが足を止めた。帰る素振りを見せたので首を傾げると、四方谷くんは何かを思い出すように、斜め上のあたりを見つめた。

 

「そ、それは急がないと!」
「でしょ? じゃあ、また明日」
「うん、また明日ね、四方谷くん」

 

 手を振って、四方谷くんは来た道を戻っていった。結局、彼の住んでいる場所がどのあたりなのか聞きそびれてしまった。通学路が途中まで一緒なら、また今度帰る時にでも聞けるかもしれないけれど……なぜだか直接聞くのははばかられる気がする。
 門からお寺の中を横目に見たけれど、境内には鳩がいっぱいいるだけで、観光客の姿も見えなかった。

「ただいまー」

 

 帰宅すると一番乗りだったらしく、誰からも返事はなかった。帰宅部だとこういうことがあるけれど、あまり気にしていない。今まではもうちょっと寄り道してから帰っていたので、お母さんが帰宅していることが多かった。司はサッカークラブの練習だったり、友達と遊びに行ったりしていて、だいたい夕飯前にならないと帰ってこない。
 リビングのテーブルに学校でもらったプリントを置いて、自分の部屋へ上がる。着替えて宿題をやってしまおう。

 

「――おい、奴隷」
「ひゃっ!?」

 

 机に向かおうとしたところで、急にマガツヒの声がして驚く。いつも急に話しかけてくるので、もうちょっと優しく呼びかけるとか、せめて姿を見せてから話しかけるとか、そういう配慮をしてほしい。驚くたびに寿命が縮まるとしたら、私の寿命はマガツヒのせいでかなり減っているはずだ。とはいえ、マガツヒに配慮を求めたところで当然無駄なのだろうけれど。
 案の定、これから宿題をやりたい私のことなど一切気にしていないマガツヒは、紫色の手のひら大のまんじゅう姿で机の上にふんぞり返っている。見た目だけならかわいいのが、毎度悔しい。

 

「急に話しかけないでよね……あと私、奴隷じゃないってば!」
「俺様に話しかけられるという栄誉だぞ。ありがたく思え」
「絶っ対! 思わない!」

 

 マガツヒがわざわざ話しかけてくるということは、少なくとも彼にとって用があるということだ。極力、節約したがる彼のことだから、こちらから話しかけても無視されるか、よくて声だけが聞こえるかのどちらかだ。わざわざまんじゅう……人魂の姿で出てくる時は、ちゃんと話を聞かないと、それはもうひどい言葉のオンパレードだ。ただでさえ口が悪いのに拍車がかかってしまう。好きなキャラクターである戒の姿で喋られるよりはマシなのだけれど、いまだに慣れない。というか、慣れる必要性を感じない。

 

「そんなことより貴様、どこぞで低級悪霊を引っかけてきたか?」
「え? 今日は特に何もなかったと思うけど」
「フン。気付かんほどか。さては契約している俺様の気配に怖じ気づく小物か」
「なに? どういう意味?」
「相変わらず哀れな生き物だな、貴様は……」
「その哀れみ、やめてっ」

 

 マガツヒの言葉に今日一日を振り返ったけれど、悪霊らしきものに遭遇した覚えはなかった。今まで出会った悪霊たちは、前にするだけで寒気がしたものだ。とても恐ろしいと感じた。だから、今日は特にそうした感覚がなかったから、マガツヒの勘違いだと思うけれど。

 

「今の貴様は、悪霊にとってはそこそこ美味そうに見えるわけだが、いくら蛇が目の前の蛙を食おうと思っても、その後ろに鷹がいるのでは手を出せないというものだろう。まあ貴様は蛙というより蟻んこだし、俺は獅子くらいのものだが」
「わかったけど、最後が余計」

 

 人を蟻呼ばわりするのも蛙呼ばわりするのも失礼だけど、今更言っても仕方がない。諦めて受け入れつつある自分を少し悲しく思うが、こちらが大人になってあげないといけないのだ、マガツヒ相手には。本当に口が減らないかわいくないモンスターである。

 

「まあ、その程度の小物なら逃がしたところで惜しくはない。食ってもたかがしれているしな。おい、まか、貴様もっと我が下僕としての自覚を持ち悪霊を献上せんか」
「マガツヒの下僕になった覚えもないし、悪霊の献上もしません!」
「チッ。生意気なしもべだ」

 

 どっちが、と思ったけど、これ以上の言い合いは不毛だ。なんとか堪える。
 マガツヒをつまんで机の端っこによけると、問題集を取り出した。悪霊ではないけれど、マガツヒが反応する心当たりを思い出す。

 

「そういえば、転校生が来たよ」
「悪霊か?」
「そんなわけないでしょ。普通の人だよ。まあ、東京から来た子だから、ちょっと不思議な感じだったけど」
「貴様に不思議と言われるそいつが哀れだな」

 

 我慢よ、まか。自分に言い聞かせて、反論を飲み込む。マガツヒはたいして興味を持たなかったようで、そのままぷうぷうと寝息を立てはじめた。喋らないでいるとかわいいのに、とため息がこぼれる。
 真面目に宿題に取り組んでいると、しばらくして階下から「ただいま」と司の声が聞こえてきた。返事をするか迷っていると、呼ぶ声が続く。

 

「おねえー、配達の人が来てるー」
「今行く!」

 

 配達、つまり宅配なのだけど、司はまだ小学生だから受取ができない。階段を降りて、玄関に置いてあるハンコを配達の人が持っている伝票に押した。依頼人の欄を見ると、母方の祖母からだった。ということは、中身はきっと梨だ。

 

「おかえり、つん」
「ただいまー」
「部屋行く前に、ちゃんと手洗いうがいするんだよ」
「はーい」

 

 ランドセルを背負ったまま洗面所に走っていく背中を見送り、荷物をリビングに運び込む。勝手に開けていいものか悩んだが、お祖母ちゃんからなら問題ないだろう。品名にも果物と書いてあるし、外箱もお祖母ちゃんの家がある地域のブランド名が書いてある。ガムテープをはがして中を確かめると、予想通り梨がぎっしりつまっていた。一緒に手紙が入っているけれど、達筆すぎてよく読めない。これはお母さんが帰ってきたら読んでもらおうと思い、テーブルに出しておく。何個か冷蔵庫に入れて、残りはキッチンの隅に箱のまま置いておいた。

 

「つん! お祖母ちゃんから、梨届いたよ」

 

 夕飯前だからむいてあげることはできないけれど、教えてあげたほうが喜ぶだろう。洗面所にいるのか、自分の部屋にいるのか。わからないので大きめの声で呼ぶと、階段を降りる足音が聞こえてきた。部屋に戻っていたようだ。

 

「梨!」
「今日のデザートにしよっか」
「するする!」

 

 県北に住んでいるお祖母ちゃんは梨農家なので、毎年送ってくれる。私も司も、それがとても楽しみなのだ。
 司がテレビとゲームのスイッチを入れるのを見て、ちょっとだけ呆れる。

 

「宿題やったの? お母さんに怒られるよ」
「今日は宿題ないもん」
「ほんとうかなぁ」

 

 部屋の電気をつけてカーテンを閉める。まあ、宿題をやっていなくても困るのは司本人だし、私には関係ないのだけれど。

 

「うそじゃないよ。それよりおねえ、あんなぬいぐるみ持ってたっけ?」
「ぬいぐるみ?」

 

 ゲームを始めた司が、振り返らずに言う。また勝手に人の部屋に入ったようだ。見られて困るものは別にないからいいのだけど、せめて一言くらいは断るべきだと思う。一応、姉の部屋なのだから。
 しかし司の言うぬいぐるみがどれのことかわからず、首を傾げる。部屋にはぬいぐるみもキーホルダーも、色々置いてある。司や奈保に言わせれば、変なセンスらしいけれど。

 

「机の上にあったやつ。紫の」

 

 一瞬、息をのむ。

 

「あれ、おねえにしてはかわいいんじゃない?」
「つん、見えたの!?」
「え? 見えたって……普通に置いてあったじゃん。隠してなかったよ?」
「そ、そうだけど……」

 

 机の上にある、紫色のぬいぐるみ。
 心当たりはひとつしかない。そもそも、机の上にぬいぐるみは置かないのだ。かわいくても邪魔になるから。今、机の上に置いてあるのは、やりかけの問題集と筆箱、それに――昼寝しているマガツヒだけ。
 人魂のマガツヒは、確か霊感があって、波長が合う人間にしか見えないはずだ。そうなると司には霊感があることになってしまうけれど、今までそんな話は聞いたこともない。見間違いか、一時的なものであってほしいと思いながら司のほうを見ると……横顔に違和感を覚えた。

 

「司、どっか体調悪い?」

 

 首をひねりながら訊ねると、振り返った司と目が合う。やっぱり、どこかいつもと違う気がする。どこがとは、うまく言えないけれど。

 

「それ、朝のおねえじゃん。別になんもないよ」
「そう? ならいいけど……」

 

 笑いながらテレビ画面に顔を戻す。私の気のせいならともかく、マガツヒがいるせいで悪霊が近付いていたり、司に取り憑いていたりしなければいいけれど。あとでマガツヒに念を押しておこうと思っていると、玄関からお母さんの「ただいま」が聞こえてきた。

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