第二話 恋と悪霊とおまじない・後編
――翌日。
登校して教室に入ると、バスケ部の朝練を終えた天宮くんが席に座っていた。運動部や吹奏楽部は朝練することがあるけれど、早起きが大変なのだと奈保がよく言っている。最近、寝不足気味だという天宮くんに早起きは大変だろう。席で寝ていたら起こすのも悪いかな……と横を通り過ぎると、彼はちゃんと起きていて、挨拶してくれた。
「あ。千代、おはよう」
「おはよう。天宮くん。……昨日はよく眠れた?」
昨日のマガツヒの言葉がなくても、やっぱり心配だ。声をかけると、天宮くんは少し笑って頷いた。
「うん、そこそこ。教えてもらった入浴剤使ったから、早く寝付けたよ」
「さっそく使ってくれたんだ?」
「うん。やっぱり入浴剤は柑橘系がいいよな」
顔色は、昨日と比べて少しは良くなっている。目の下にうっすらとできたクマはさすがに一日では消えないけれど、安心して、ほっと息を吐く。
天宮くんに、生き霊が取り憑いている。マガツヒはそう言っていた。にわかには信じがたいことだけれど、悪霊本人であるマガツヒの言葉をまったく無下にすることもできないし、現に天宮くんの体調には影響が出ているのだ。……これは、マガツヒのためではない。天宮くんのため。そう言い聞かせながら息を吸う。
――その瞬間。
「っ!?」
また、寒気を感じる視線。すぐに教室の中を見回すけれど、それらしい人物は見当たらない。昨日とあわせて二回目だ。いくらなんでも、気のせいと言うことはないだろう。誰かが私か、あるいは天宮くんを見ているのだ。それはひょっとすると、生き霊の主かもしれない。もしもそうなら、余計に誰が見ているのか突き止めたいところであるけれど、人が増えてきた教室では難しい。
「千代? どうかした?」
「ううん、なんでもないよ。……あ、細谷さん、おはよう」
「おはよー、まかちゃん。天宮くんも」
「おはよ」
改めて天宮くんに尋ねようとしたけれど、彼の前の席の細谷千春が教室に入ってきたので、挨拶をして場所を譲った。細谷さんは確か、奈保と同じ吹奏楽部だ。教室へ来たということは、朝練が終わったのだろう。元々、天宮くんと親しいわけではない。そのまま話を続けるのもかえって不自然な気がしたので、自分の席についた。
鞄を机の横に引っかけると、いまだに外せないでいるマガツヒのキーホルダーが音を立てる。
「おっはよー! まか」
「おはよー、奈保」
鞄から教科書やノートを机に移動していると、奈保が元気よく挨拶してきた。勢いよく椅子に座ったので、机が揺れる。奈保は慌てて机を抑えると、「ごめんごめん」と舌を出して笑う。けれどそのまま、私の机の上に腕を乗せて、顔を近付けてきた。内緒話の合図にいったい何かと思いながら、耳を寄せる。
「……あのさ、お節介かもしれんけど、天宮は競争率高いけぇね」
「……え?」
「いやっ! あたしはもちろんまかのこと応援するんじゃけど、なにせ相手が――」
「ちょっ、待って待って、勘違いだからね!?」
「へ? そうなん?」
「そうだよ!」
何を言い出すのか、慌てて否定する。両手をすごい勢いで横に振って。おかげで机が揺れて、鞄につけたキーホルダーが音を立てる。確かに、今まであまり話したことがなかった天宮くんに話しかけていたら、何かあると思うかもしれない。まさか悪霊が取り憑いているだなんて、普通の人は想像しないだろうから、奈保の考えもわからなくもない。わからなくもないけれど、やっぱり早とちりすぎる。
ようやくわかってくれた奈保の頬を、指でつっつく。
「もー、びっくりさせないでよ」
「あはは。ごめんごめん。けど、天宮が人気なのはほんまじゃけん。裕美子とかサチとか、気になるゆうとったよ」
「そうなの? 裕美ちゃんは初耳だぁ」
「まあ、裕美子はミーハーやし、今のうちだけじゃろうね」
天宮くんは成績優秀、文武両道、品行方正。とにかくそれらしい四字熟語を並べ立てたくなるくらい、完璧を体現している。クラスでも男女問わず人気があることは知っていたけれど、想像以上のようだ。裏を返せば、誰から感情を向けられていてもおかしくない。マガツヒの言葉よりは天宮くん自身を信じたいけれど、完璧すぎる天宮くんを妬ましく思ってしまう人がいても不思議ではない。
生き霊ということは、生きている人が原因。けれど天宮くんを悩ませる相手など、学校中の生徒全員あり得る話だ。それくらい、バスケ部のエースは我が校で有名なのだ。天宮くんに直接心当たりを聞ければ良いのだけれど、いくら彼が金縛りを体験していても、悪霊の話を信じてもらえるとは思えない。
移動教室の際や、昼休みに校舎内を歩き回って、噂話に耳を傾けたり、様子を見たりしてみた。けれど残念ながら手掛かりは得られず、放課後になった。一応、マガツヒのキーホルダーを鞄から外してスカートのポケットに入れていたけど、意外にも学校では大人しくしているものだから、一言も喋らないし、まんじゅうのような姿も見せなかった。
「まか、また明日~」
「うん。部活頑張って」
放課後になり、部活に向かう奈保を見送った。教室にはまだ残っている生徒もいるけれど、大半の生徒は部活に行くか帰宅するかしている。もちろん、天宮くんはバスケ部のクラスメイトに誘われて、すぐに教室を出ていた。
机に突っ伏して考えてみたけれど、考えるだけで何かわかるはずもなく。ひとまず、癪ではあるがマガツヒの意見を聞いてみようと思い、鞄を持って立ち上がる。……と、先週借りた本の返却期限が迫っていたことを思い出した。まだ読み終わっていないけれど、天宮くんの件がすっきりするまでは読む気になれない。一度返したほうが良いと思い、一階の図書室に立ち寄った。
図書室では、勉強している生徒や本を読んでいる生徒の姿がまばらに見られる。入ってすぐのカウンターで返却したいと告げると、座って本を読んでいた女子生徒が静かに顔を上げた。
「あ。藤田さん」
「……千代さん」
同じクラスの藤田さんだった。そういえば、普段からクラスでもよく本を読んでいる、いわゆる文学少女だ。図書委員であることは知っていたけれど、どうやら今日が当番だったらしい。
「この本、返却お願いしても良いかな?」
「うん……わかった」
返却手続きは、本の後ろにある貸し出しカードに、図書委員が日付印を押してくれたら完了だ。あとは任せておけば、司書さんや委員が、手の空いたときに本棚へ戻してくれる。ふと、藤田さんが先程まで読んでいた本は何かと思い目をやると、色あせた薄ピンクの表紙に、『まじない事典』と書いてあった。小学生の頃は、クラスの女子に流行っていたけれど、中学になってからはあまりお目にかかっていない。奈保が時折、テレビで見た話を聞かせてくれるくらいだ。
「藤田さんって、そういう本も読むんだね。いつも分厚い本を読んでるイメージだったから、ちょっと意外」
「そう、かな……」
「いっぱい本読んでて、すごいよね。今度、オススメ教えてほしいんだけど、いいかな? ……あ、あんまり厚くないやつで」
「う、うん」
試験前でも、読書週間でもない図書室はそれほど混んでいないけれど、長々と話して藤田さんの邪魔をするわけにはいかないし、小さな会話も気になる人がいるだろう。あまり話したことのないクラスメイトと話すきっかけができて良かったと思いながら手を振る。
「ありがとう。じゃあ、また明日」
「あ……千代さん!」
急に、藤田さんに呼び止められる。帰る気でいたので、背中を向けたまま、顔だけ振り向く。
「……ちょっとだけ、時間ある……?」
本当は、すぐに帰ってマガツヒの話を聞くつもりだったけれど、深刻そうな彼女の顔を見ていると、頷くしかなかった。天宮くんのことは心配だけれど、藤田さんに悩みがあるのなら、同じくらい心配だ。「ちょっと待ってて」と言うと、奥に引っ込んで、少ししてカウンターから出てきた。空いたカウンターには、別の女子生徒が座る。どうやら彼女に任せたらしい。
「だ、大丈夫?」
「うん……授業のことで話があるからって、言ってある。……ちょっと、出よう」
藤田さんに促されて、一緒に図書室を出た。
廊下に出ると、空き教室で練習している吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。外からは、運動部のかけ声も聞こえる。それ以外は静かだ。日中と違って、生徒たちの会話は聞こえない。
「藤田さん、どうしたの? 何か話があるんだよね?」
「……こっち」
話しかけても、藤田さんは振り返らず、前を歩き続けていた。仕方がないのでついていく。向かっているのは昇降口のほうだ。昇降口へつくと、藤田さんは上履きのまま奥のドアを開けて出た。ピロティと呼ばれているそこは、中庭のような構造だ。ドアを開けるとちょっとしたスペースがあって、奥には校舎があり、そちらはドアなどついていない。二階に渡り廊下があるので屋根にはなっているけれど、完全に覆っているわけではないから、雨の日だと普通に濡れる。それにたいした広さではなくて、教室の半分もないくらいだから、運動部もあまり使わない。校舎の壁に沿っていくつかのベンチが置かれているから、昼休みにはそこそこ生徒がいるのだけれど、今は無人だ。昇降口からはガラス張りのドアのせいで丸見えで、告白スポットにもならない、あるだけ無意味な空間。藤田さんは右手の壁に設置されているベンチに近付いていった。
外から見えるとはいえ、二階の渡り廊下から身を乗り出しでもしない限り、会話は聞こえない。あまり人には聞かれたくない話をするのだろう。
「あの……千代さん」
「うん」
背中を向けたままの藤田さんに名前を呼ばれる。深刻そうな雰囲気を察した。藤田さんはなかなか続きを言わなかった。早く帰りたいけど、そんな雰囲気を出したら、大人しい性格の彼女はきっと話してくれないだろう。もやもやした気持ちを抱えながら待っていると、ようやく振り返った。
「千代さんって、好きな人、とか、いるの……?」
予想外の問いかけに、一瞬固まる。けれど藤田さんの真剣な眼差しで我に返る。冗談や、単なる恋バナとは思えない。
「い、いないよっ!?」
困惑したけれど、とにかく返事をする。答えるまでずっと見つめられていては、居心地が悪い。長い前髪の下から見つめる目は、感情が読み取れない。考えていることがわからない。不意に、マガツヒの言葉がよみがえる。
――心の内で何を考えているか、誰もわからんものだ。
「本当に?」
「うん、ほんとだよ。そういうのは全然ないから」
再度の問いかけに大きく頷く。藤田さんの表情が安心したように和らぐ。不思議に思いながら、疑問を問い返す。
「藤田さん、ひょっとして……好きな人、いるの?」
「えっ……!?」
驚いた藤田さんの顔が、みるみるうちに赤くなっていく。色白な肌が耳まで真っ赤に染まっていくのを見て、勘が当たったことを知る。同時にひとつの予想が生まれたので、ベンチに座って、すかさず隣を勧める。藤田さんは恥ずかしそうにうつむいてもじもじとしていたけれど、根気強く待っているとベンチの端にちょこんと座ってくれた。
「誰が好きなのか、聞いてもいい?」
「……誰にも、言わない?」
「うん。絶対、誰にも言わないよ」
長い前髪の向こうからちらりと覗く不安げな視線に、何度も頷く。それでも藤田さんは、しばらく黙ったままだった。あまり仲が良いわけではない。やっぱり、私に言うのは不安なのだろうか。同じように黙って待っていると、どこからともなく風が吹いてきた。ベンチに置いた鞄の、マガツヒのキーホルダーがカチャカチャと音を立てる。
すると藤田さんが顔を上げた。じっと、こちらを見つめているので、緊張しながら見つめ返す。再び、キーホルダーが音を立てると藤田さんはようやく口を開いた。
「えっとね…………くん」
予想はしていたけれど、あまりにも声が小さくて聞き取れなかったので、藤田さんのほうに身を乗り出す。
「ご、ごめん。聞こえなかったから、もう一回教えて……?」
すると彼女は、今度ははっきりと告げた。
「――天宮くん」
やっぱり、と思う。けれど藤田さんの怪訝そうな視線に、慌てて言葉を返す。
「そ、そうなんだ。天宮くん、優しいもんね」
「うん……。でも、千代さん、最近天宮くんとよく話してたでしょ? だからもしかして、千代さんも天宮くんのこと好きなんじゃないかと思って……」
「とんでもない! 私、恋とかまだよくわかんないし。天宮くんは、ただのクラスメイトだよ」
「ほんと?」
「うん、ほんと。むしろそれなら、応援させてほしいもん」
そう言うと、藤田さんはようやく安心したような表情を浮かべた。こちらとしても安心した。天宮くんに取り憑いている生き霊の正体は、恋に悩める乙女の藤田さんだったのだ。妬みとか恨みとか、そういうドロドロとした恐ろしいものじゃなくてよかったと思う。
けれど、続く言葉に返事することはできなかった。
「そうだったんだ……私、千代さんが羨ましくて……本で読んだおまじない、試しちゃったよ」
「おまじないなんて、効くはずないのにね」と笑う彼女の声が遠く、キーンと耳鳴りが響く。
キーホルダーがカチャカチャと騒がしい。
照れたように笑う藤田さんの背中から、もやもやとした薄暗い雲のようなものが立ち上る。
制服の下の両腕に鳥肌が立ち、寒気が背筋を駆け抜ける。
うつむく藤田さんにうり二つの形をしたもやもやは、目があるべき場所に鈍い光を宿して、こちらをじっと見つめていた。
動くことも、声を出すこともできない。ただ、全身が水に濡れたような寒気に襲われていて、本能が危機的状況を告げていた。
「――――で、――――なの。それ――――て、――――」
藤田さんの言葉は、右から左へとすり抜けていく。先日遭遇した男の子の姿をした悪霊より、よほど恐ろしい。これで生き霊ならば、マガツヒが求めるような悪霊は、いったいどんなにおぞましいものなのだろう。考えただけで体が震える。
恋する乙女のかわいらしい様子と、身の毛がよだつほどの恐ろしい生き霊。あまりにも対称的な様に息をするのも忘れていたせいで――瞬きをした一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「悪くはない。本音を言えば、もっと熟成しているほうが好みだがな」
どこかで聞いたことのある声が、神経を逆なでするような言葉を連ねる。
真っ白い着物の裾が、どこから吹くのかわからない風にはためいていた。
切り髪が風になびき、お風呂の栓が抜けて水が吸い込まれていくときのような音が、辺りに響く。
「あ――――」
藤田さんの声が短く聞こえると、押しつぶされそうなほどの圧迫感が消えていることに気付く。慌てて周りを見回すと、藤田さんがベンチで眠っていた。彼女の背中から雲のように出ていた、恐らく彼女の生き霊はすでにどこにもいなかった。
ベンチの前に、右手であごをさすっている戒――ではなく、彼の姿をしたマガツヒが立っていた。戒にしては悪すぎる目つきと、キーホルダーと同じ朱色のペイントが頬にある。あの日以来、見るのは二回目だけれど、マガツヒだと確信する。
「まあ、可もなく不可もなく、といったところか。やはり蟻で鯛は釣れんな」
そして腹ぺこ口悪モンスターは、やっぱり口が減らなかった。
「あ。おはよう、千代!」
「おはよう、天宮くん」
朝から元気はつらつに名前を呼ばれる。振り返ると、バスケ部のエースである天宮くんが立っていた。明るい表情で、目の下のクマはなくなっている。顔色もずいぶんと良くなっているようだ。
正門で声をかけてくれた天宮くんが隣に駆け寄ってきて、思わず周囲を見回したが、誰も私たちのほうは見ていない。ほっと胸を撫で下ろしながら、並んで昇降口へ向かう。
「元気そうだね」
「ああ、そうなんだよ。昨日は久しぶりに金縛りもなくて、すごくよく眠れたんだ。やっぱり千代に教えてもらった入浴剤の効果かな? ありがとな。助かったよ」
「それならよかったよ」
部屋にいるとマガツヒに話しかけられそうで嫌だったから、早めに家を出た。昨日は帰ってから宿題が途中までしか終わらなかったので、ホームルームまでに続きを終わらせるつもりだった。天宮くんはこれから朝練なのだろう。今まで通り、爽やかで明るい好青年の姿だ。一日何もなかっただけでこの喜びようということは、よほど連日金縛りに悩まされていたのだろう。クラスでも特にいい人である天宮くんの力になれたのならよかった。
昨日は人型のマガツヒが出てきて、藤田さんの生き霊を食べてしまった。マガツヒはいつものように嫌味を言って消えてしまったけれど、藤田さんはベンチで気を失ったまま。肩を揺すっても起きなかったので、頑張って保健室まで連れていった。話していたら急に倒れてしまったのだと、一部本当のことを言って彼女を先生に任せ、図書室にも彼女が倒れた旨を伝えに行き、急いで家に帰った。
お風呂を上がって部屋に戻ると、机の上で、まんじゅうのような姿のマガツヒがぷうぷうと寝息を立てていた。宿題をしようと机の電気を点けると、目を覚まし、突然「及第点だ」と言いだした。その時点で嫌な予感がしたから、無視しようと思ったのだけれど、広げたノートのど真ん中に陣取って居座るものだから、仕方がなく彼の話に耳を傾けた。
結果から言うと、天宮くんに取り憑いていたのは、やっぱり藤田さんの生き霊だった。彼女は天宮くんと話したいと思っていて、本に載っているおまじないを時々試していたのだけれど、そもそもそれが生き霊を生み出していたのだとか。彼女の生き霊によって天宮くんに異変が起こると、心配した藤田さんがさらにおまじないを試し、天宮くんはさらに眠れなくなり、負の連鎖を繰り返していたところに、私が立ち入ってしまった。教室で天宮くんと話している私を見た藤田さんは嫉妬して、さらにおまじないを行い、とうとう生き霊が形作るまでに肥大化してしまった――と、マガツヒは説明した。
もしかして私のせいなのかと悩んでいると、マガツヒは「生き霊は放っておいても肥大化するものだ。遅かれ早かれ、俺様の目に留まっていただろう」と言った。そして彼は言いたいだけ言うと、満足したのか再びぷうぷうと寝てしまい、考えているうちに時間が過ぎて、宿題が終わらなかった――というわけである。
「悩みごとって、やっぱ話すだけでもすっきりするよな。千代も、何か困ったときは相談してくれよ。じゃあ、また教室でな!」
「あ、うん」
靴を履き替えると、天宮くんは体育館に向かって颯爽と去って行った。足取りも軽く見える。本当に、一晩でずいぶんと元気になったようだ。急展開についていけてないけれど、解決したのなら、とりあえずはよかった。
あとはもう一人の当事者が心配だ。話したい気もするけれど、なんと言葉をかけていいかもわからない。マガツヒと出会ってから、悩ましい日々が続いている。そういう意味では、彼は確かに悪霊なのかもしれない。
まだ全然人がいない教室に入るとほっとする。藤田さんはまだ来ていないようだ。申し訳ないけれど、やっぱり昨日の今日だと、心の準備がすぐにはできない。自分の席についてノートを取り出した。
「……千代さん」
「うえっ!? あ、ふ、藤田さん? おはよう」
「うん……おはよう」
いざ宿題を始めようとしたところで、急に声をかけられた。びっくりして顔を上げると、藤田さんだったのでもう一度驚く。いつの間に教室へ入ってきたのだろうか、全然気が付かなかった。驚きを隠しながら挨拶すると、小さな声だけど挨拶を返してくれる。それにほっとした。
「昨日は、ごめんね。私、よく覚えてないんだけど……」
昨日のことを思い出すと鳥肌が立ちそうになったので、慌てて頭から打ち消す。
「ううん、大丈夫だよ! 先生、きっと疲れてるんだろうって言ってたけど、平気?」
「うん。平気よ。ありがとう」
「そっか。よかった」
マガツヒが藤田さんの生き霊を食べると、糸が切れた操り人形のようにぱたっと眠ってしまったから、たいそう心配した。あんな見た目でも自称悪霊だ。藤田さんに危険が及んだらどうしようかと焦ったけれど、本人もいたって健康そう。平気という言葉に嘘はなさそうだった。
「色々ありがとう、千代さん」
「え?」
何が色々なのかわからなかったけれど、聞き返しても藤田さんは答えてくれなかった。そのかわり、席へ戻るため振り返った彼女の長い髪に変化を見つける。
「藤田さん、ヘアピンかわいいね!」
いつも下ろしている、少し長い前髪を留めるようにつけられたヘアピン。小さな赤いハートの飾りがついている。奈保にはいつもセンスが変だと言われるけれど、私だって普通にかわいいものくらいわかる。ピンで髪を留めていると、表情がよく見えてすごくいいと思う。
「――ありがとう!」
そう言うと、藤田さんはとてもかわいらしい顔で笑った。