第二話 恋と悪霊とおまじない・前編
「貴様のような、爪の先ほどしか脳みそがない人間にもわかるように言うとだな……本来は大悪霊である俺だが、今は人間を通して喋ったり、姿を現したりしている。しかし俺は、悪霊の中でも高位の存在だから……ああ、言い換えると、かなりすごいから、人間の波長が合わずとも、人間側に合わせてやることができるわけだ」
マガツヒと名乗った自称悪霊は、私が部屋に戻るや否や喋りだした。戒の姿かと思ったけれど、手のひらに乗るくらいの紫色っぽいぷよぷよした塊に顔がついて喋っていた。素直に驚いたけれど、左の頬あたりに朱色の不思議な図形があることから、自称悪霊なのだとわかる。見た目だけなら、ちょっとかわいい気もする。
「俺を見つけ、悪霊どもをおびき寄せられる人間がいたら、強制的に餌にす……契約を結ぶようにしていたが、こんな小娘とは当てが外れたな。俺の力も落ちたものだ。数百年ぶりに目覚めたかと思えばこれなのだから、さすがに夢かと思ったぞ。もう一眠りするか真剣に迷った」
「け、契約って……私、寿命をとられたりしちゃうの!?」
「ハッ! 貴様如きの寿命など、犬の糞より使い物にならん。俺は美食家だからな。悪霊以外で腹は膨れん」
……他にも、何かややこしい、引っかかるような言い回しで、マガツヒは話してくれた。けれど、要約すれば、件のキーホルダーに封印されてしまったマガツヒは、封印を解くために悪霊を食べたいのだという。そのためには人の手を借りる必要があって、それがたまたま、私だった、ということだ。
キーホルダーをはじめて手に取ったとき、不思議とひんやりしていた。
せっかくかわいいと思って購入したのに、こんなにかわいくない悪霊が取り憑いていたなんて、できるものなら返品したい。もちろん、そんなことはできないし、させてくれないのだろうけれど。
「ああ、貴様の名前を聞いていなかったな。呼びつけるときに必要だ、訊いてやろう」
「名乗る気が失せるんだけど……」
「名乗らずともいいぞ。下僕と呼んでも大差ないからな」
悪霊なんて、漫画やアニメの中だけの存在だと思っていた。今でも信じられないけれど、お風呂に入っても足首に残る小さな手の痕や、目の前で浮遊する自称悪霊を見ていると、信じるしかない。事実は小説よりも奇なりという言葉がなんとなくわかる気がした。
「最っ低!」
マガツヒは、なぜか楽しそうに高笑いした。
「もうっ! ……私の名前は千代(せんだい)まか。下僕じゃないからね!」
「まか、か。生意気にも俺の名と毛の先ほどばかり近しいな。見上げた下僕だ」
「だから違うってば! ほんっと、かわいくない!」
マガツヒが口を開くたびに怒っていてはキリがない。わかっているのだけれど、いかにも楽しげな言い方が神経を逆なでする。人の機嫌を損ねるという意味では、彼は確かに悪霊かもしれない。
――かくして。
不本意ながらも、私は悪霊・マガツヒと契約させられたのだった。
キーホルダーに宿っているのがマガツヒだとわかって鞄から外そうとしたのだけれど、マガツヒが「どこかへ行くのなら連れていけ。でなければ、貴様を餌にしている意味がないだろうが」と横柄に言い放ったため、仕方がなく鞄につけたまま登校した。キーホルダーに罪はない。
「うげっ。まだついてんの、バリヤバ呪いのキーホルダー」
「ねえ奈保、なんか色々増えてるんだけど? 全然やばくないから!」
「いや、やばいじゃろ。もうオーラがこう、あれよ」
今日は余裕を持って登校できた。吹奏楽部の朝練が終わったところの奈保に、再びキーホルダーをいじられる。呪いのキーホルダーというのは、残念ながら間違っていないので否定できない。
昨晩マガツヒが語ったところによれば、力の出し方にもいくつか段階があるらしい。もっとも力を使わないのはキーホルダーから出てこないで静かにしていること。これはいわば、人間でいうと睡眠やじっと座っていることにあたる。次に、手のひら大の紫色の塊。スライムのようにも思えたけれど、いわく人魂なのだとか。これは契約者である私や、霊感があって波長が合う人間には姿が見えて、喋ったりもできる状態で、普通に立って歩いたり動いたりしているのにあたる。最後に、人型。これが一番力を使うらしく、人間なら長時間走ったり運動するのに匹敵するらしい。悪霊の力を振るうことができるらしいが、それでも本来の姿ではなく、私の頭の中にあるキャラクターの姿をとることで、少しでも力を節約しているのだとか。マガツヒが悪霊を取り込むためには、この人型を取る必要がある。それ以外のときに力を蓄えているのだと、彼は話した。
「ハンドメイドでも、もうちょいかわいいやつあるじゃろ? これはこう……どの角度で見ても、いけんて」
キーホルダーをよく見ようと、奈保が私の鞄を持ち上げる。たぶん、どこからどう見ても、奈保がかわいいと思うことはないだろう。
「っと、ごめん」
「ああ、いや、こっちこそ。瀬尾、怪我してない?」
「気を付けてよ、奈保。天宮くんこそ、大丈夫だった?」
「うん。てか、こっちがぼーっとしてたのが悪いし」
奈保が一歩さがると、後ろに立っていた学ランの男子生徒にぶつかってしまう。すらりと背の高い、元から明るい髪を丁寧にセットした彼は、クラスどころか学年の誰でも知っている生徒、天宮志道(あまみやしどう)。スポーツ万能、学業優秀、男女わけへだてなく優しい。完璧を絵に描いたような人物だ。
奈保をたしなめてから天宮くんに訊ねると、彼は笑いながら顔の前で手を振った。
「顔色悪くない? ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だって。単なる寝不足だし」
確かに、顔色は白に近い。眠たげな、疲れた色がくっきりと浮かんでいる。どんな授業も居眠りひとつしない天宮くんにしては、珍しいことだ。
心配ではあったけれど、本人が大丈夫というのだから、それ以上追求することもない。席に戻っていく背中を見送った。
「天宮って、神経細そうじゃけぇね。部活、大変なのかね」
「うーん、そうかも。天宮くん、バスケ部のエースだし」
自分の席に座りながら、奈保がようやく鞄を返してくれる。キーホルダーから目をそらして、鞄を机の横に引っかけた。木製のキーホルダーが机の脚に当たって、かちゃんと音を立てた。
マガツヒの目的は、封印を解くこと。封印というからには、彼は何か悪いことをしたために封じられたのだろう。だから、マガツヒの封印を解いてはいけないと思う。ならばキーホルダーを捨てるなり、家に置いておくなり、できることはあると思うけれど、マガツヒの契約者となってしまった以上、悪霊たちは勝手に私に引き寄せられてしまうのだとか。……悪霊。昨日の男の子、みたいな存在。人ではない、悪夢のようなもの。あんなものにまた出会うのかと思ったら、キーホルダーのマガツヒを連れ歩いて、いざとなったら彼に何とかしてもらうほかに手はない。
「はあ……」
「なになに。まかも調子悪いん?」
「そうじゃないけど……いや、やっぱそうかも」
これからのことを思うと、深いため息がこぼれた。奈保が心配して顔を覗き込んでくる。調子が悪いとは言い切れないけれど、少なくともよくはない。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
「一緒に行こうか?」
「大丈夫だって。小学生じゃないんだから」
黒板の上にある時計を見ると、ホームルームまではまだ時間がある。
トイレの前に集まって喋っている同級生たちを横目に、女子トイレのドアを押した。鏡の前で髪型を整えている子もいて、とても朝らしい光景だ。上靴からトイレのスリッパに履き替えると、個室がひとつ開く。ちょうどいいと思ってそちらへ向かうと、見知った顔とすれ違った。
「藤田さん、おはよう」
「……おはよう。千代さん」
クラスメイトの藤田美津子だった。物静かで、いつも自分の席で授業の予習や復習をしている、真面目な子。確か図書委員だったはずだ。私はあまり話したことがない。藤田さんは顔をうつむけると、小さな声で挨拶を返してくれた。長い前髪が顔を隠してしまって、表情はよく見えない。足早にすれ違った藤田さんを見送って、空いたばかりの個室に入り、鍵をかけた。
ハンカチで手を拭きながら教室に戻ると、なんとなく藤田さんのほうに視線が向く。いつものように、何か本を読んでいるようだけれど、教科書ではなさそうだ。どんな本を読んでいるのか気になって訊こうかと思ったけれど、予鈴が鳴ってしまった。
――そうして、いつも通り授業が始まり、終わる。
奈保は今日も部活だ。ホームルームが終わるなり教室を出て行ってしまった。天宮くんも、朝と違ってすっかり目が覚めたようで、同じバスケ部の男子と一緒に体育館へ向かっていった。
私は掃除当番を終えてから、鞄を持ってひとりで帰途につく。昨日みたいな出来事はこりごりだから、今日は絶対に寄り道せずに帰ろうと心に決める。
「…………おい」
「ひえっ!?」
「愚か者。俺だ」
今日は天気がいいから、本当なら海沿いを通って、少し遠回りをしながら帰りたい。けれどその気持ちを我慢して足を速めて歩いていると、耳元で急に男の声が聞こえて飛び上がる。立ち止まって辺りをきょろきょろと見回していると、目の前に紫色の丸い物体がふよふよと浮いていた。
「ま、マガツヒ、驚かさないでよ」
「貴様が勝手に驚いたんだろうが。よくそれで生きていけるな。動物なら息を吸っている間に死ぬぞ」
「私、動物じゃないし……って、こんな街中で急に出てこないでよ!?」
相変わらず、一言余計だ。いや、一言といわず、マガツヒの言葉は大半が余計なもので、必要な言葉は少ししかない。けれど、いちいちそれに反応している場合ではないと思って我に返る。人通りは多くないけれど、夕方の商店街近くだ。マガツヒの姿を見られても困るけれど、それだけならぬいぐるみと言い張ることもできる。けれどそれが喋っていたら、いくらなんでも、腹話術ではごまかせない。慌てて声をひそめるけれど、マガツヒは余計に、私の目の前を自由に飛び回る。
「霊感のない人間如きに俺の姿は見えんし、声も聞こえんから安心しろ」
「そ、そう……」
「貴様が、一人で喋る変な人間だということしか知れないぞ。よかったな」
「よ、よくないっ」
安心したのも束の間。マガツヒの言葉で、周りを気にしながら、慌ててその場を離れた。
商店街を離れて、人通りの少ない道を歩きながら、改めて、並走して浮かんでいるマガツヒを眺める。
「急に出てきて……何か用でもあったの?」
「わからんとは、つくづく愚かな……いや、ここまでくると哀れな人間だな」
「ほんとに失礼ね」
「大悪霊である俺が、人間如きに礼節を持つものか。むしろ人間が俺に礼節を持つべきだぞ」
「はいはい、そーですね」
マガツヒが、不意に私の肩に乗った。ほとんど重さは感じないけれど、彼が触れている部分は少しひんやりしている。
「俺が、悪霊以外で貴様に用があるわけないだろう」
「えっ。じゃあ、もしかして、この近くに……?」
呆れ気味、もっというなら小馬鹿にした声音に突っ込むより、悪霊という言葉のほうが引っかかった。思い出すのは、昨日出会った男の子。今日はマガツヒが一緒とはいえ、こんな手乗りサイズの自称悪霊がどこまで頼りにできるのか。不安に駆られて人気のない道を警戒するも、マガツヒはすぐに「違う」と否定した。
「残念ながら、近くにはいないな。だが――貴様の身近に、悪霊の気配を感じる」
「それって、学校ってこと?」
「ああ。あの手の場はいいな。悪霊に育つ前の、悪意の苗がそこかしこに植わっている。おい、まか。あいつだ、あいつが一番美味そうな匂いをさせていたぞ」
「あいつって、どいつよ」
「察しろ。あいつだ、あの優男」
「優男? ……もしかして、天宮くんのこと?」
「そうそう、それだ」
昨日の今日なのに、なぜかマガツヒの言いたいことがわかってしまう自分に悲しみを覚えつつ、クラスメイトを思い浮かべる。
天宮くんは、とにかくいい人だ。男女構わず接してくれて、一緒に日直をしたときには率先して仕事をやってくれた。隣の席のときに授業でわからないところを訊けば教えてくれたし、体育や部活でも大活躍。当然女子にももてるけれど、だからといって男子に妬まれているとは思えない。友達も多いし、仲良くやっていると聞く。天宮くんと悪霊という組み合わせは、想像からもっとも遠いものだ。
「天宮くんに限ってはないと思うよ。マガツヒの勘違いじゃないの?」
「戯け、俺が悪霊の気配を間違えるものか。まか、貴様はそいつを探れ。必ず悪霊との接点があるはずだ」
「ええ? 私がやるの?」
「無論だ。貴様は餌であり忠実なる奴隷だぞ」
「餌にも奴隷にも、なった覚えがないんだけど!?」
マガツヒの理不尽な言葉に心底びっくりする。餌とかなんとか、そんなことは昨日も言っていたけれど。下僕とか奴隷とか、つくづく嫌になることばかりいう悪霊だ。おかげで少しもやってあげようという気持ちにならない。
「……でも、天宮くん……寝不足気味っていってたよね」
決して、マガツヒのためなどではない。むしろこれは、天宮くんのためだ。寝不足気味だといっていた、学年の人気者のために、もしも何か力になれるのなら、それは手を貸してあげたいと思う。結果的にマガツヒの言葉に従うことになるとしても、だ。
「はあ……仕方ないなぁ」
「従順な下僕だ。賢明だな」
「マガツヒは黙っててっ」
高笑いを残して、マガツヒは姿を消した。
結構本気で、キーホルダーを処分しようかと思った。
とはいえ。
次の日、授業中に天宮くんの様子をうかがっていると、やっぱり眠そうにしていた。何度も目をこする姿を目にしたし、休み時間には大きな欠伸をしていた。顔色も、どことなく悪いように見える。
マガツヒの言葉が頭をよぎる。
けれど頭を振って、心配を振り払う。天宮くんが悪霊なんかに取り憑かれるはずがない。彼が言っていたとおり、部活が忙しくて寝不足なのだろう……そうは思ったけれど。思ったけれど、クラスメイトとして、話を聞いてみるくらいは、いいと思う。天宮くん、隣の席のときに、教科書を忘れたら見せてくれるし、掃除当番も真面目にやってくれるし。彼を悩ませる原因が悪霊とは限らない。これは単なる悩み相談だ。
……自分にそう言い聞かせながら、迎えた昼休み。
給食を終えて、当番の奈保は片付けに回った。チャンスは今しかない。思い切って、天宮くんの席に向かう。いつもなら彼の机を囲っている友人たちも、タイミングよくいない。
「天宮くん」
「ん? ああ、千代か。どうした?」
勇気を出して声をかけると、天宮くんは顔を上げて、目をぱちぱちさせてから返事をした。少し浮かんだ微笑みも、なんだか疲れているように見える。
「ほんとに寝不足みたいだけど……大丈夫? 何か、悩みとかあるんだったら、話くらい聞くよ?」
「サンキュー。寝不足は寝不足なんだけど、どっちかっていうと、部活でしごかれまくってるからかな。疲れすぎて、なんか逆に寝れないんだよなあ」
「疲れてたら、寝ちゃわない?」
「うーん……なんていうか、寝落ちはするんだけど、夜中に目が覚めちゃうんだよ」
大丈夫と言われるかと思っていたけれど、意外にも天宮くんはするすると喋りだした。話した後に、大きな欠伸をして「ごめんな」と謝罪をする。これだけ眠そうにしているのに、夜中に目が覚めてしまうことなんてあるのだろうか。私だったら、疲れて眠ってしまったら、朝までぐっすり。起きてから宿題をやっていないことに気が付いて慌てるくらいなのに。
少し引っかかるものを感じていると、天宮くんが、急に声をひそめた。
「……千代ってさ、金縛りとか、信じる?」
「……えー……うん、まあ……」
周りを気にして、すごく真剣そうなところ悪いのだけれど……本当に、マガツヒの言う通りかもしれない気がして、嫌な予感がしてきた。おかげで、ちゃんと話を聞いてあげたいのに、頭の中でマガツヒの笑う声が聞こえる気がする。嫌すぎる幻聴だ。
けれど天宮くんは、私の態度には幸いにも気付かなかったようで、安心したように話を続けてくれる。
「そっか。……実はさ、その夜中に目が覚めたときって、金縛りに遭うんだよ」
「金縛りかぁ」
「テレビとかで解説されてるから、頭ではわかってるんだけどさ。やっぱ、ふっと目が覚めて体が動かないと、結構ビビるんだよな」
「そうだよね。……て、もしかして、何回もあるの?」
「そうなんだよ」
それは悪霊の仕業云々はさておき、大変だろうと思う。快眠できず、金縛りにも遭うなんて。寝不足になっても仕方がない。
眠そうに重い目をこする天宮くんに、よく眠れるアロマでもおすすめしようかと考えながら、何の気なしに顔を上げた。もしかしたら、無意識にマガツヒのことを連想していたのかもしれない。自分の席のほうを見た。
――瞬間、背筋を寒いものが駆け抜ける。
今のは、何だろう?
ぞっとするような、心臓が止まるほどの確かな感覚。それは例えるなら、男の子の姿をした悪霊に出会ったときと同じような、本能が恐れる感覚。
「そうだ、千代」
「え? あ、うん。なぁに?」
一人で息を詰めていると、急に呼ばれて、我に返る。
「おすすめの入浴剤とかないか? リラックスできそうなやつ」
「うーん……瀬戸内シリーズの、はっさく……とか?」
「あれいいよな。俺も好き」
「もう使ってるんだ。それじゃあ、いよかんのほうは?」
「いよかんもあるんだ? それは初耳」
「結構おすすめだよ」
話しながら、話題をそらされたような気がしていた。だけど話を戻す気にはなれなかった。まだ背筋が薄ら寒い。他愛もない話でなんとか気を静めていると、教室の外から、別のクラスの男子生徒が天宮くんを呼びに来た。
「部活の話かも。行ってくるよ」
「うん。急にごめんね」
「全然いいよ。むしろ、気にかけてくれてありがとな」
じゃあ、と言って、彼は席を立った。
後ろ姿を見送りながら自分の席に戻ると、どこからともなく視線を感じて顔を上げた。教室の中を見回すけれど、誰も私のほうは見ていない。……勘違いだろうか。マガツヒやら悪霊やらのせいで、神経が過敏になっているのかもしれない。深くため息を吐いて、机に伏せる。鞄につけているマガツヒのキーホルダーが、笑っているようにカチャカチャと音を立てた。
「正直、食欲はかなり減退しているが、木の根でもないよりはまし、ということもある。やはり貴様如き海老で鯛は釣れんということだろうが、俺様が百歩、いや千歩、譲ってやることにした」
帰宅早々、マガツヒが立て板に水を流すように喋るから、驚くより先に呆れてしまった。よくもまあ、ここまで舌が回るものである。内容よりもそこに感心してしまう。
幸いなことに、今日はまだ、他の家族は帰っていない。母親はパートだろうし、弟の司はサッカークラブの練習だろう。紫色のぷよぷよしたマガツヒと話していても、問題ない。この姿だと、ぬいぐるみみたいで可愛いのに。キーホルダーの次くらいに。
「天宮くんの話?」
「なんだ。物わかりが良いではないか」
「あんたが話を聞けって言ったんでしょうが」
マガツヒのキーホルダーは、不本意ながらも鞄につけて登校しているが、学校にいる間は姿を現さなかった。意外にも話しかけてくることもなく、大人しくしていた。今日は帰り道でも静かで、玄関のドアを閉めた直後に喋りだしたのだ。
学校でもらったプリントをリビングのテーブルに置いて、自分の部屋に上がる。何か食わせろというマガツヒに、今日のおやつとして用意されていたおはぎをあげた。マガツヒと話していては、食欲もなくなってしまうというものだ。
「――てことだから、寝不足は寝不足みたいだけど、ちょっと変な話だよね」
「ここまで聞いておきながら、ちょっと変な話で済ませるお前は、むしろだいぶ変だぞ。俺は親切だから教えてやるが、自覚を持て。下僕」
「だから下僕じゃないし! あと私は変じゃないからねっ」
「ハッ」
私の反論もむなしく、マガツヒに鼻で笑われる。不思議物体のくせに。最初はマガツヒの勢いに押されていたけれど、なんだか単にむかつく悪霊なだけがしてきた。
けれど、いつまでもマガツヒに突っかかっていては話が進まない。今回、天宮くんが心配だから、たまたまマガツヒの言うことに従っただけなのだ。それを思い出して、話を戻す。
「やっぱり悪霊が関係してるのかな……」
「正確には、悪霊ではないぞ。まあ、似たようなものだから、乱暴に同類と言えないこともないが」
「じゃあ、なんなの?」
「ふむ……貴様にわかるように言えば――生き霊、ということになるか」
「生き霊?」
「なるほど、わからんか。貴様の頭の悪さを侮った俺が悪かったな」
「わ、わかるよ!」
口を開けば、とにかく失礼な悪霊だ。
「生き霊って、生きてる人の幽霊みたいなやつでしょ?」
「いかにも要領を得ん解答だな。俺が点を付けるなら零点だ」
「うるさいっ」
「ふむ……面倒だが、貴様に知識がないと、みすみす極上の獲物を逃すかもしれんしな。不本意だが、大悪霊様直々に講釈してやろう。ありがたく聴け」
「……それはどーも」
マガツヒ曰く、大悪霊様直々のありがたい講釈は、言い方が遠回しでわかりにくいところもあったけれど、全体をまとめれば、こういうことだ。
――そもそも悪霊とは、この世に存在するあらゆる悪意、妬み、恨みなど負の感情が集まったもの。その強さによって、人に化けられたり、話せたり、あるいは自我を持ったりする。力が強い悪霊ほど、他者に影響を与えることができるらしく、その代表例が取り憑くことなのだとか。生き霊とは、悪霊に含まれるものなのだけれど、負の感情を発する源が生きている人間に限られる。逆に死んだ人間の悪霊を幽霊と呼ぶ。といっても、幽霊は恨みだけでなく未練や心配などでも生まれるから、厳密には悪霊に含まれるというより、重なる部分があるというべきらしいが。
「じゃあ、マガツヒも元は人間だったの?」
「戯け。誰がいつ、悪霊は人間からのみ生まれると言った。俺は人間なんぞから生まれる、ちんけな悪霊ではない。この世から生まれ出た、それはもう格の高い大悪霊だ」
「意味がわかんない……」
「貴様、馬鹿だからな」
もはや返事するのも面倒で、マガツヒを睨むに留まる。ああ言えばこう言う。言わねば気が済まないのだろうか、この腹ぺこ口悪モンスターは。
「つまり、だ。あの優男は確かに取り憑かれている。しかし単なる悪霊ではなく、生き霊に取り憑かれているのだ。どこぞで恨みでも買ったのだろうな」
「天宮くんが、人の恨みなんて買うわけない!」
「言っていろ。自我のあるものなど、心の内で何を考えているか、誰もわからんものだ」
マガツヒの言葉に、うっと黙り込む。
天宮くんは、成績優秀、品行方正。絵に描いたように完璧な男の子だ。誰にでも優しいし、穏やかだし。誰かに嫌われることなんてないだろう――と思う一方で、自分にはできないことをできる相手を、妬ましく、羨ましく思うことだってありえるかもしれない。
「しかし喜べ、下僕」
「……何を?」
「生き霊ならば、原因の人間を突き止めれば解決する。そいつ自身に生き霊の本体が取り憑いているはずだから、それを食えば、優男に取り憑いている生き霊も消えるという寸法だ」
「そ、そうなの!?」
「ああ。俺は腹が減っている。一刻も早く、本体を見つけて捧げるが良い。この際、質には目をつぶってやろう」
マガツヒのその言葉で、ともかく方針が決まった。
明日になったら、もう一度、天宮くんに話を聞いてみよう。