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第一話 悪霊との遭遇

 ――夢を見た。
 なぜだかわからないけれど、これは夢だと確信していた。見知らぬ景色なのに、見慣れた景色に思えたからかもしれない。けれどその判断すらも、考えようとすると深みにはまって、霞むようにとけていく。
 妙な不安に襲われて、辺りを見回す。唐突に覚えた喪失感。
 ハッとして、空を仰いだ。
 頭よりもずっと高いところを、男の人が歩いている。そう――歩いているのだ、中空を。まるでそこに、目に見えない道があるかのように。
 真っ白い和服と、長い黒髪が風に遊ばれている。下からでは、顔がよく見えない。あの人は誰なのだろう。知っているような気もするし、まるで知らないような気もする。懐かしい気もすれば、そうでない気もする。
 男の人を見上げていると、にわかに足元が揺れた。地震かと思ったが、揺れはすぐに収まる。けれどその直後、地面から、黒っぽい塊が入道雲のように湧き上がってきた。気持ち悪くて身をすくませる。塊は男の人を目指すように浮き上がっていった。それ自体は半透明に透けているが、いくつも重なり、ひしめき合って男の姿を隠してしまう。はじめは気のせいかと思ったが、やはりこれらの塊は男を取り囲んでいた。次から次へと湧き出して、やがて一つにまとまり、大きな形を作る。それは黒いため、竜巻のようにも見えたし、嵐の雲にも見え、またあるいは、巨大な人形のようにも見えた。
 ――あれはきっと、よくないものだ。
 そう思うけれど、近付こうとするだけで気持ちが悪くなる。胸を押さえて、一歩、二歩と下がる。
 気にしながら見上げていると、首が痛くなってきた。黒い塊はまだ増えていっている。もう近くにはいられない。じりじりと離れる。
 ……その時、塊の動きが止まった。隙間から白い光が零れだす。
 見ている間に、黒い塊は白い光に飲み込まれて消えていく。光を発しているのは中心――つまり、あの男の人に違いない。男が何者かもわからないのに、そう確信していた。そしてその確信の通り、あとに残されたのは、宙にたたずむ男一人。
 嫌な感じのする塊が消えたことで、安心して胸を撫でおろす。あの人が無事でよかった。そう思っていた。
 すると不意に、今まで一度もこちらを見なかった男の人が、顔を下に向けた。頭上の光が眩しくて、やはり顔は見えない。光は次第に明るさを増していき、眩しさに目を細める。

「――――」

 

 男の人が、何か言っている。
 口の動きもよく見えず、宙に浮かんでいる場所から遠くて声もよく聞こえないのに――私に向かって、何か言っていることだけはわかった。何か伝えようとしてくれている。それが何か知りたいのに、どうしても聞き取れない。先程あとずさった分、前に進もうとするけれど、近付こうとすればするほどに光は強くなり、風も吹いてきた。
 顔の前に腕を出して、風にあおられないように姿勢を低くする。けれどかえって風に足をすくわれてしまい、よろけて転んだ。すぐに顔を上げると、辺りは目を開けていられないほどの光に包まれて真っ白だった。男の着ている服は光にとけてしまって、黒い髪だけが居場所を教えてくれる。それも次第に遠ざかっていく。男はまだ、何か言っているようだ。手を伸ばしたけれど、到底届くはずなどない。

 

「――――」

 

 待って、行かないで。
 言葉にするより先に、いっとう強い風が辺りを吹いて回る。咄嗟に目を閉じて、両手で顔を覆う。嵐の中にいるようだ。もう――堪えられない。
 止めていた息を吐き出すと。

 

「待って!」

 

 大きな声が出て、驚いて目を開けた。
 目を瞬く。風は吹いていないし、光も満ちていない。むしろ薄暗いそこは、よく知った景色だ。見慣れた天井、見慣れたベッド、見慣れた机。まぎれもなく、私の部屋だ。それ以外であるわけがない。ほうっと息を吐いて、我に返る。
 ――今、何に安心したのだろう?
 見れば、右手が何かを求めるように、前に出ている。ずいぶんと寝相の悪いことだ。
 何か……、夢を見ていたような気がする。
 朝起きたときは、いつもそう思う。けれど今日は確信に近かった。そう、夢。夢を見ていたのだ。だけど、肝心の夢の内容が思い出せない。誰が出てきて、どこが舞台で、何があったのかも。思い出そうとすればするほど、夢の風景が、もやに飲まれたように消えていき、思い出せなくなっていく。

 

「……なんだったんだろう」

 

 妙な胸騒ぎがしていた。けれどそれは、いいことがありそうだとか、逆に悪いことがありそうだとか、そういう類いのものではない。ただ、何かがありそうだという、ざわつきだけ。
 外の光が、カーテン越しに部屋の中を照らしている。
 ベッドの上で少しぼんやりしてから、枕元の目覚まし時計を手に取る。……と、その時。

 

「まかー? 起きたの? ご飯、食べちゃってよ」
「あ、はーい。今行く!」

 

 母に呼ばれて、返事をする。改めて時計を見ると、時刻は七時過ぎ。朝ご飯を食べてから準備をしても、学校には間に合う。ベッドを下りて、寝間着のまま、部屋のカーテンを開けた。外は、薄い雲がたなびくいい天気だ。昨夜の天気予報では、くもりのち雨といっていたけれど、その心配はなさそうだ。
 部屋を出てリビングに向かうと、ちょうど弟の司がリビングから出てくるところだった。ランドセルを背負っている。

 

「あれ? つん、早いね」
「朝練あるから。先行くね、おねえ」
「行ってらっしゃい」

 

 サッカークラブの朝練があるという弟を見送って、のんびりと朝食を摂る。テレビの天気予報も、夕方からは雨といっているが、とても信じられない。
 そうして余裕を持って朝の準備をして、学校に着いてから授業の予習ができるだろう……そう思っていたのに。
 なぜか今――、通学路を一生懸命に走っている。すれ違う大人の視線が痛い。
 そもそも、家を出るまでは何の問題もなかった。朝食を終えて、身支度を調えて、前日に用意しておいた荷物を持って家を出た。ついでにゴミ出しを頼まれたけれど、これもいつも通り、よくあることだ。家から中学までは、歩いて二十分ほど。決して遠くはない。
 では、何が問題だったかといえば――。
 まず、道で転んで困っているおばあさんを見かけた。近くにおばあさんのものと思しき荷物も散らばっていたから、一緒に集めて、近くまで運んであげた。数名、薄情な同級生に追い抜かされた。
 次に、歩いていると、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえた。気のせいかと思ったけれど、よくよく探してみると、近くの側溝から聞こえる。見れば、子猫がはまっているようだったので、助けてあげた。ハンカチで手を拭いて、少し足早に学校へ向かう。
 最後に、道端にしゃがみこんで泣いている男の子がいた。司より年下に見える、小学校低学年くらいの子だ。話を聞くと、お気に入りのヒーローのキーホルダーを、ふたが外れない金網の側溝の下に落としてしまったらしい。近くに落ちていた木の枝をなんとか引っかけて取り、ハンカチできれいに拭いてから渡してあげた。何人か、走って行く生徒に追い抜かれて、まったく薄情なものだと思った。喜び走って行った男の子も、間に合えばいいけれど――と、そこでようやく気が付いた。
 そう、私が遅刻しそうだと。
 かくして、優雅な朝は一転して慌ただしい朝となってしまったのだ。まったく、誰も助けの手を差し伸べないとは、世知辛い世の中である。
 体力測定でもこんなに走らないぞと思いながら、正門から滑り込み、下駄箱で急いで靴を履きかえる。こんな時間に登校してくる生徒はいないのか、一階の廊下は静まりかえっている。面倒がって踵を踏みつぶしたまま階段を上がるが、思ったより脱げそうになる。こんなことなら、ちゃんと履けばよかったと反省する。
 それでも何とか、間一髪で、三階にある二年生の教室に滑りこんだ。同時に、チャイムが鳴る。

 

「せ、セーフ……」
「おはよ、まか。ギリギリじゃん。寝坊でもしたん?」
「おはよう。奈保。まあ、ちょっと色々あってさ……」

 

 ぜいぜいと肩で息をしながら、自分の席について荷物を下ろす。額ににじむ汗を手の甲で拭った。
 下敷きで風を送っていると、前の席に座っている、友人の瀬尾奈保がくるりと後ろを向いて話しかけてきた。奈保は笑っているけれど、私は笑いごとではない。本当に疲れたのだ。運動部でもない私が、ここまでダッシュするのは。

 

「色々ってなんなん? てか……むしろこれ、何?」
「どれ?」
「これ、いつもの趣味悪いやつ!」

 

 そういって奈保がつかんだのは、机の上に置いた、私の鞄についているキーホルダーだ。

 

「趣味悪いって、ひどくない? かわいいじゃん」
「いや、邪悪じゃろ。いつも思うけど、どこで買うん? こんなん」
「どこでって、フリーマーケットとか、手仕事市とかで」
「はー……」

 

 奈保は手の中を見て、深いため息をつく。ため息をつきたいのはこちらのほうだ。こんなにかわいいのに、邪悪だなんて。
 件のキーホルダーは、人型の薄い木の板に、色をつけ、紙の服を巻いて、ニスで仕上げた、ちょっと民族風の珍しい作りだ。紙で作られた衣装は和風だが、見知った着物ではない。けれどなんとなく懐かしい雰囲気で、それが気に入って手に取ったのだ。確かに、顔があるべき場所には、朱色の勾玉が三つ連なったような模様が描かれているし、ストラップの付け根には、何色ともいいがたいマーブル模様の玉がつけられているから、見る人によっては……まあ、少しは不気味かもしれない。けれど邪悪とまでいわれるほどとは思えないのだが。

 

「まか。あんた、こんなんばっか買ってるけん、いいことないんよ」
「えー。それとこれとは関係ないでしょ」
「絶対そうじゃ。あたしが断言する」

 

 自信満々な奈保の言葉に、さすがに不満を返す。もちろん、これが曰く付きで売り出されていたらそうかもしれないと思わせる雰囲気があるけれど、そうではないのだ。近くで定期的に催される手仕事市で、偶然見つけただけ。売っているおばあさんも、知り合いの知り合いが作ったものだと聞かされて、代わりに売っているだけだといっていた。キーホルダー一個で運が向かないなんて、堪ったものではない。
 奈保にキーホルダーをけなされるのはいつものことだが、やはり黙ってはいられない。もう少し文句をいってやろうと思ったけれど、それより先に、担任の曾根崎先生が教室のドアを開けて入ってきてしまった。
 しばらく奈保の背中をじっと睨んでいたけれど、背中に目があるわけでもないから気付くはずもなく。いつまでも引きずっているのも馬鹿らしいし、朝のホームルームが終わる頃には目をそらした。彼女に限った話ではないのだ。私のセンスがないだとか、悪趣味だとか、そういってくるのは。弟の司にいわれることもある。私は心底かわいいと思っているけれど、世間の大多数から見れば、ひょっとすると、まあ、あまりかわいくないのかもしれない。
 休み時間になってから、改めて奈保に今朝のことを話した。
 立て続けに困っている人や猫がいたことと、薄情にもそれを素通りしていった同じ中学の生徒たちのことを。すると奈保に「まかって、相変わらずお人好しやんね」といわれた。どういうことかと問えば「悪いけど、あたしだって遅刻しそうだったら見て見ぬ振りするけぇ」とのこと。猫はともかく、おばあさんや男の子をそのままにして行くなんて、とてもじゃないが私にはできない。別に奈保が冷たいとは思わないけれど、急いでいるときは自分を優先する……そういう、当たり前のことが私にとっては当たり前ではないのだ。
 結局、奈保はそれ以上キーホルダーにも私の人助けにも触れなかった。部活に後輩が入ってきた話だの、昨日見たテレビの話だの。商店街に新しいカフェができたから行こうだの、そんな話ばかり。
 そうして放課後になると、奈保は部活に行ってしまった。私は部活にも委員会にも所属していないから、授業が終わればすぐに帰る。奈保の部活が休みなら、手仕事市で買った他のものも見せたかったのだけれど、彼女は吹奏楽部。運動部なみに忙しく、テスト前くらいしか休みがないと聞いている。また今度、学校に持ってきて見せてあげよう。……コメントは想像に容易いけれど。
 中学校を出ると、空には白い雲がかかっていた。けれどまだ降りそうには見えないし、少し寄り道をして帰りたい気分だ。とはいっても、中学生だから財布は持ってきていないし、公園は小学生が遊んでいる。寄るとしても、せいぜいがこの前手仕事市で行ったお寺の境内を散歩するくらいだろう。それでも気分転換にはなると思って、いつもと違う道へ入った。
 平日の昼下がりだからか、人通りは少ない。こぢんまりとしたわりに寺社仏閣が多い街で、それを売りにしているところだから、意外と年中観光客がいる。まったく人がいないのも珍しいと思ったけれど、夕方になればほとんどの寺社は門を閉じてしまう。こんなものなのだろう。それに、人がいない方がのんびりできていい。
 週末にはピクニックシートや新聞紙を敷いた人で賑わっていた。けれど誰もいない境内は広々としていて、賑わいとはほど遠い。何だか不思議なものだ。
 ふと、辺りが薄暗い気がして空を見上げる。先程まで空を覆っていた雲は、すっかり厚くなり、鼠色になっている。これは、今にも降り出しそうだ。
 早く帰ったほうがいいと思い、境内を出る。門をくぐると石段があって、少し下りると開けて道が続いている。海に面した小さな街だけれど、海沿いの駅と線路を挟んですぐに山がある。その斜面は昔から寺社が多く建てられていて、今になってその山と海の間に街が作られたのだと、授業で聞いたことがある。だから山の手側は寺社をつなぐように、入り組んだ道と坂、そして階段が続いているのだ。地元の住民でも、あまりに来ないところは迷いそうになる。

 

「……あれ?」

 

 石段を下りると、道の岐路にランドセルを背負った男の子が立っていた。今朝見かけた男の子だ。ランドセルに、拾ってあげたキーホルダーがぶら下がっている。

 

「こんにちは、おねえちゃん」

 

 私に気が付いた男の子が、にこりと笑う。近くでしゃがみ、男の子に目線を合わせる。

 

「こんにちは。雨が降りそうだけど、おうちに帰らないの?」
「うん」

 

 空はずいぶんと暗くなっている。今にも泣き出しそうな雲だ。
 中学の授業が終わるのは、当然小学校よりも遅い。けれど男の子は、公園で遊んでいた他の子たちと違ってまだランドセルを背負っている。一度も家に帰らず寄り道なんて、褒められたことではない。絶賛寄り道中の私がいえたことではないかもしれないが。
 心配して訊ねるけれど、男の子はにこにこと笑ったまま帰るそぶりがない。

 

「だってぼく――おねえちゃんのこと、待ってたから」
「……え?」

 

 その言葉に、首を傾げる。男の子は口に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと目を開いた。
 途端に、恐ろしいほどの寒気が背筋をかけぬけて、ぞくりとした。
 男の子は笑っているだけだ。何もおかしなところなどない。何も――そう、何も――。

 

「おねえちゃんなら、ぼくと遊んでくれるよね」

 

 気が付いた。
 目が笑っていないのだ。感情のない黒々とした目が、小学生とは思えない強い視線で私を見ている。小学生がこんな表情をするはずがない。この子は、一体何者なのだろう。理屈ではなく、普通ではないと思った。否、普通であるはずがない。あっていいはずがない。怖い。恐ろしい。これは、現実なのだろうか。それとも、夢だろうか。夢であってほしい。こんな悪夢は、早く覚めてほしい。

 

「いっしょに、遊ぼ。ぼくが見える、おねえちゃん」

 

 男の子が、笑っていない笑顔を貼り付けたまま、手を伸ばす。逃げようとしたけれど、足がもつれて立てず、尻餅をついた。手をついた石段が、氷のように冷たい。息苦しいほどの圧迫感を覚える。

 

「ね、遊ぼうよ、おねえちゃん。ねえ、ねえってば」
「や、やだ……来ないで……っ」

 

 男の子の小さな手が迫る。身をよじって避けるけれど、目の前に迫る、小さいはずの手がやけに大きく感じられた。いつまで逃げられるだろうか。一歩間違えば、石段から転げ落ちてしまいそうだ。立ち上がって逃げなくてはと思うのに、すっかり足が萎えて、思うように動かない。
 誰かが見ていたら、きっと滑稽な光景だっただろう。あるいは、微笑ましく見えただろうか。小学生の男の子に怯えて尻餅をつく女子中学生、なんて。

 

「おねえ、ちゃん」

 

 あとずさる手が石段に触れて、姿勢を崩す。その拍子に肘をすりむいたけれど、そんなことに構っている場合ではなかった。
 男の子の手が、ぴとり、と足首をつかむ。

 

「ひっ……!」

 

 その手は、異様なほどに冷たく、そしてまた強く力がこもっていた。靴下越しにも伝わる冷たさに、体中の血まで凍るような気がする。息をするのも忘れた。男の子がつかんだ足首が、ミシミシと骨を軋ませる。とても小学生の力ではない。つかまれた足は確かに痛いのだけれど、それよりも頭を占めているのは恐怖だった。
 男の子の体から、黒っぽい煙のような、雲のようなものが溢れ出してきた。もはや男の子の体は、黒いものに包まれて見えなくなっていた。もやもやとうごめく気持ち悪さに、顔をしかめる。
 これではまるで悪夢だ。……そう、悪夢。なにか悪いものが取り憑いているのだ。そうに違いない。

 

「つか、まえたぁ」
「だれ、か……、たすけ……っ」

 

 目を閉じることもできずに、歯の根があわずにかちかちと音を立てる。
 黒いものが迫る。
 頭が、真っ白になった。

 

「――――やれやれ」

 

 目の前に、真っ白な背中が立ちふさがる。

 

「……え……?」

 

 驚きに声をもらすと同時。それまで、恐ろしいほどの力で足首をつかんでいた手が離れた。顔の前まで迫っていた黒いもやもやは、白い影に遮られている。

 

「平々凡々な人間が媒介じゃ、この程度の小物しか釣れんか。腹の足しにもならん」

 

 男の声だった。私と、男の子の姿をした何かとの間に立っている人影から聞こえる。驚いた様子もない、至極つまらなさそうな声音は、あまりにも場違いに思えた。男の着ている白が翻る。
 途端に、男の子の声がわめき出す。

 

「いっ――いやだいやだイヤダァ!!」

 

 壊れたおもちゃのように繰り返す声は、先程の男の子のものと同じとは思えない。それほどまでに切羽詰まって、悲痛な声に聞こえた。立場が逆転したようだけれど、目の前の男に遮られていて、私には何が起こっているのかわからない。

 

「ほほう……一丁前に怯えるか。悪くない、抵抗されたほうが面白いからな」
「イヤダいやだ消えたくないっ」
「フン。せいぜい、餌に釣られた自分を呪うんだな」

 

 何が起きているのか。男にはずいぶん余裕があるが、男の子にはそれがない。

 

「ちょっと、あなた何を――」

 

 男の服の裾をつかもうとしたけれど、返事の代わりに聞こえてきたのは、男の子の金切り声の悲鳴だった。思わず耳をふさいでも構わず貫いてくるそれは、まさしく断末魔。細く延びていた声は、やがて唐突に途切れた。そして、それっきり、辺りは静かになる。
 体が震えるほどの寒気が収まっていることに気が付く。雨が降る前の湿った空気がまとわりついて、汗が流れる。まだ心臓がドキドキしている。手を当てた胸の鼓動が速い。
 石段に座りこんだまま靴下を下ろすと、男の子の小さな手の痕がくっきりと残っていた。握られた部分が真っ赤になっている。

 

「夢じゃ……ない……?」

 

 わけがわからない。こんなの夢に決まっているのに、あまりにも生々しい感覚が残っていて、現実を突き付けられる。
 と、目の前の男が聞こえよがしに舌打ちをする。

 

「チッ。これなら、霞でも食っていたほうが余程いいぞ。……おい、人間」
「えっ?」

 

 急に人影が振り返った。男は白い和服を着ているけれど、着物ではないようだ。長い袖と、背中でひとつに結んだ長い黒髪が翻る。病的なまでに蒼白い端正な顔は、左の頬に不思議な図形が朱色で描かれている。

 

「なんだ、小娘か。それなら小物しか釣れんのも頷けるが……まあ、俺を見つけた目の高さだけは褒めてやろう」

 

 偉そうな男の物言いにムッとするけれど、この状況、目の前の男に対して、頭の中で疑問がぐるぐると渦巻く。
 何より、それらの疑問を差し置いてまで気になることがあった。

 

「あなた――戒?」

 

 表情や雰囲気、何より頬の図形は見慣れないものだが、姿形は見覚えがある。最近、弟が通うサッカークラブで流行っている漫画の登場人物とそっくりだ。あの漫画に登場する戒というキャラクターは、平安時代の貴族の衣装で、狩衣というものを着ている。長い黒髪と切れ長の目は、まさしく戒そのもの。そう考えれば、口調も彼に似ているし、アニメの声とも似通っている。
 しかし、私の言葉に、男は眉を寄せた。

 

「俺はお前の意識にある姿を借りているから、知っているように見えるだけだ」
「そ、そう、なんだ……」
「そんなしょぼくれた名前ではない」

 

 どうやら機嫌を損ねてしまったらしく、不機嫌そうに男は答えた。
 そうはいっても、横柄な態度すら戒にそっくりで、その性格は生来のものなのか問いたくなるのを我慢する。それよりも、訊かなくてはならないことがある。

 

「それじゃあ、あなたは誰なの?」
「……貴様のような小娘如きに名乗るのも癪だが、仕方あるまいな」

 

 深いため息を吐く男は、心底気が進まないようだったが、正面から私を見据えた。その視線は真っ直ぐ突き刺さり、何だか緊張する。正面を向いた男の首には、ネックレスのように大きな玉が提げられていた。濁ったマーブル模様の玉には、見覚えがある。

 

「俺は魔禍尽曳(マガツヒ)。その人形が、俺の依り代だ。そうだな、貴様にもわかるようにいうと――悪霊、といったところか?」
「あく、りょう?」
「ああ。しかし厄介なことに、俺は今、力を封じられていてな。他の悪霊を食らうことで力を蓄えるのだが、今は人間を媒介にしなければ顕現することもできん。まったく嘆かわしい話だが、幸いにして、貴様程度に霊力を与えることはできる。……せいぜい、俺のために悪霊をおびき寄せる餌になってもらうぞ」

 

 口の端をつり上げて笑ったマガツヒ。
 私の返事を待たずに、彼は「この姿を維持するのも、力を使って勿体ない」と言い残して姿を消した。
 ひとり、ぽつんと残される。鞄につけているキーホルダーを手に取って見た。人型の顔辺りに描かれた朱色の図形は、マガツヒの左頬にあったものと同じだ。それに、ストラップの付け根にあるマーブルの玉も、大きさこそ違うけれど、彼が首から提げていたものだ。
 認めたくないけれど、認めるしかないようだ。

 

「……意味わかんないし」

 

 ため息を吐いていると、不意に滴が頬を叩いた。空を見上げると、ぱらぱらと雨が降り出していた。慌てて鞄をつかみ、石段を駆け下りる。ここから家までは、走っても距離がある。

 

「しかもツイてないし、もう……最悪っ!」

 

 鞄を胸の前で抱えて走る。キーホルダーがかちゃかちゃと音を立てた。
 ……結局、家に着く頃にはずぶ濡れで、髪と制服からしたたり落ちる水を玄関前で絞った。

 

「ただいまぁ」
「おかえりー」
「つん、いるの? タオル持ってきてー」

 

 疲れた声に、リビングから弟の声が返ってくる。このまま家にあがったら、あとで母に怒られてしまう。司はすぐに来たけれど、タオルを投げて渡すと、そのまま急いでリビングに戻った。髪を拭きながらあとを追うと、テレビでちょうどアニメをやっているところだった。

 

「う……」
「おねえも見る? 今日、戒出てるけど」
「今日はいい……」

 

 司の誘いを断って、自分の部屋に向かう。
 テレビ画面にあるキャラクターの姿はマガツヒを思い出させて、憂鬱な気分になる。揺れるキーホルダーから、笑う声が聞こえるような気がした。

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