第五話 霊感ゼロの男
「千代さん。今日、時間があったら古寺巡りに付き合ってくれないかな?」
「ごめん、四方谷くん。今日は弟が早く帰ってくるから、家に帰らなきゃいけないんだ」
「そうか。それじゃあ、仕方ないね。今度、時間があるときにお願いするよ」
「うん、もちろん! またね、四方谷くん」
放課後になると、吹奏楽部で忙しい奈保は飛ぶように部活に向かってしまう。先日の席替えで藤田さんと同じ班になったので、朝と放課後は軽く話すけれど、今日は藤田さんも図書委員の当番のようで早々と教室を出て行った。今日は司のクラブの練習が休みで、お母さんはPTAの仕事で小学校へいるはずだから寄り道せずに帰るよう言われている。司のことだから、彰くんと遊びに行くのではないかと思っているけれど、お母さんの言うことはきかなくては。
相変わらずの帰宅部で、あまたの引く手を辞退している四方谷くんは、趣味の古寺巡りのおともによく声をかけてくれる。たぶん、私も帰宅部で暇している上に、手仕事市やフリーマーケットが好きで必然的に近隣の古寺に詳しくなったことを話したからだ。転校初日に比べると、クラスメイトたちの四方谷くんへの質問攻めは落ち着いて、彼も随分クラスに馴染んだけれど、やっぱり女子の視線は集まりがちだ。彼が頼めば街を案内してくれる子はいるだろうけれど、不思議と他の子と帰るところは見たことがない。
誘いを辞退すると、四方谷くんは颯爽と下校していった。
昇降口で靴を履き替えていると、天宮くんが廊下を駆けてきた。
「天宮くん、これから部活?」
「ああ。千代は帰るとこ?」
「うん、そうだよ。練習、頑張ってね」
「サンキュー」
テニス部のエースである天宮くんは、掃除当番を終えて急いで部活に向かうようだ。挨拶もそこそこに、ラケットを掴むとコートに向かって走って行った。一時期は睡眠不足に悩まされて不調だったようだけれど、今ではすっかりエースに返り咲いたとの噂が、私の耳にも入ってくる。何かに打ち込めるなんて本当にすごいことだ。天宮くんのことも、奈保のことも、本が大好きな藤田さんのことも尊敬している。
中学からの帰り道の途中に、司の通う小学校がある。もちろん私の母校でもあるから、通い慣れた道、見慣れた風景だ。小学校のグラウンドでは、子供たちが遊んでいる。いつもなら司もそこでサッカークラブの練習に励んでいるけれど、今日は姿がない。小学校の方が先に授業が終わるので、もう帰ったのだろう。寄り道せず、最短ルートで帰ろうと足を急がせる。
いつもの曲がり角につく。四方谷くんと一緒に帰るときは、ここで別れる。四方谷くんはもっと海のほうに向かって歩いてから住宅が並ぶ通りに入るらしい。親戚のところにお世話になっているという話だから、あまり詳しい住所や混みいった事情は聞いていない。とはいえ、訊ねてもなんとなくはぐらかされる気がする。
古寺巡りのルートを示す、小さな石碑には地元で有名なお寺の名前が刻まれている。四方谷くんが転校してきた日、初めて一緒に帰って紹介したが、御守を探しているという彼には土日のほうがいいと案内した。あれから来たのだろうか。疑問に思いながら、緩い坂道を上がっていく。晴れているから、坂道の上から見おろす海はきれいだ。マガツヒが来てからというもの、落ち着ける日が少ない。前は古寺や海沿いを散歩することが好きだったのに、街を歩いているとマガツヒのせいで悪霊に出会ったり、悪霊を探せと言われたりするのですぐ家に帰るようになってしまった。今日は珍しくマガツヒも静かだし、気分良く歩いていると、お寺の境内から声が聞こえてきた。なんとなく知っている声な気がして、大きな門から境内をのぞきこむ。有名なお寺ではあるけれど、観光客は最近少ない。人よりも鳩のほうが多いくらいで、案の定ほとんど人影がない。
「――でな、病院から逃げ出した連中は、しばらく車を走らせて、ようやく見えてきたコンビニの駐車場に停まったんだ。明かり目がけて我先にと降りて、駐車場のコンクリートの上に座り込んだ。というか、腰が抜けて立てないんだな」
大きな竹箒を持ったまましゃがんで話しているのは、近所の高校の学ランを着た男子生徒だ。
「病院のお化け、追いかけてきたん?」
「ひえー! 怖いんじゃけど!」
「いやいや、まさか。無我夢中とはいえ、かなり車で走ったからな。それよりも、病院から離れて気持ちは安心したせいか、冷静に振り返るやつが出て来ちゃって『なんか変じゃないか?』って言い出すんだ」
「なんかって、何が変なん?」
話を聞いているのは、高校生の正面にしゃがみこんでいる小学生たちだ。ランドセルを背負ったままなので、寄り道中なのだろう。呆れてため息を吐く。
「『あそこって、病院じゃなくね?』て、言うんだ、そいつ」
「え? 廃病院なんじゃろ?」
「噂では、その辺にある廃病院がすごい怖いらしい――て話なだけで、行った場所が本当に噂の場所だったのか、そもそも病院だったのかは誰も知らないんだな。まあ、暗い時間な上に汚れたり錆びたり壊れたりしてるから、建物の看板なんて見えなかったけど」
「じゃあ、病院かもしれないじゃん」
「病院以外にそんなでかいとこないでしょ」
「でもな……」
いつ声をかけたものか考えあぐねているうちに、話の雲行きが怪しくなってきた。どうやら、怖い話をしているようだ。小学生たちに茶々を入れられながらも、高校生は話を進めていく。声のトーンが下がると、小学生たちは黙って話の続きを待った。緊張感につられて、息を潜める。
「考えてみると、受付らしい空間はあったけど、薬品棚もないし、個室はあってもベッドもなくて入院なんかできる様子じゃない。機材だって、手術道具だって、病院に関連するものは何一つなかったんだ」
「でも、お化け出たじゃん!」
「そうじゃ、看護師のお化けおったじゃろ!」
話に怖がって喋らない子と、逆に騒ぎ立てる子に分かれている。
「どうどう、落ち着けって。だから変なんだよ」
「それで、その人たちはどうしたの?」
小学生の声によく聞き慣れたものが混じっていることに気付く。
「まあ、そいつらもこれ以上怖いのはごめんだと思ったから、ちゃんと色々処分した廃病院だったんだろうって結論をつけたんだけど、ひとりだけ浮かない顔をしてるんだ」
「なにかわかったん?」
「いや――よく見ると、浮かない顔したやつの背中にぴったりお化けが張り付いてて、何かぼそぼそ喋ってるんだ。他の連中はそれだけで怖いんだけど、みんな黙っちゃったから、お化けがなんて言ってるのか聞こえちゃって」
「なんて……言っとったん?」
子供たちはすっかり静かに話を聞いている。高校生は小学生たちの顔を見渡してから口を開いた。
「『病院でもないのに看護婦がいるなんて、おかしいでしょ?』って。……それも、面白いのが我慢できないみたいにクスクス笑いながらさ」
「ぎゃー!」
「こっわ!」
最後のダメ押しで、小学生たちは悲鳴をあげて蜘蛛の子を散らすように駆け出した。高校生は境内に散らばった子供たちを追いかけることもなく、立ち上がって声をかけた。
「お前らー、気を付けて帰れよー。お化けには理不尽なやつもおるんじゃけん」
「……斎(いつき)くん、また子供脅かしてたの?」
「ん? おお、まかじゃん。お前らふたりそろっとるん久しぶりじゃな」
「おねえ、学校終わったの?」
「うん。ていうかつん、家に帰らないで何してんの。お母さんに怒られるよ」
「だって、帰ってたら斎兄ちゃんが怖い話してたから」
やはり怖い話をしていたようで、境内に残ったのは高校生――怖い話をしていた張本人の寺門(てらかど)斎と、寄り道真っ最中だった弟の司と私だけだった。
斎くんはこのお寺の息子さんで、いわゆる跡取りだ。地元の高校に通う三年生で、私と司にとっては幼馴染みである。高校までは自転車で通う距離だが、帰宅部でアルバイトもしていないため、朝夕や休日にはお寺の掃除をしている姿を見かける。地元のおじいちゃんやおばあちゃんと話していることもあるが、子供たちに怖い話を聞かせて脅かしているところのほうが、最近はよく見る。年上のすることじゃないと思うが、子供は子供で怖い話が好きなのでお互い様らしい。
「まかは怖い話聞きに来んけん、つまらん」
「斎くんが怖い話以外をしてくれるなら来るよ。できるならね」
「……中学生になって、可愛げのうなったな」
「おねえ、最近ツッコミばっかりしてるもんね」
「つん、余計なことは言わなくていいの」
斎くんと司の言葉に、今日はおとなしい腹ぺこ口悪モンスターのことを連想したけれど、頭の隅に追いやる。マガツヒのことを考えていても時間の無駄だ。
「司も、まか帰って来たんじゃけえ家に帰れよ」
「えー。斎兄ちゃん、もっと怖い話してよ」
「ギャラリー少ないけん嫌じゃ。掃除もせんといかん」
「さっきまで全然してなかったじゃん」
「じゃけぇ今からするんじゃろ」
これ見よがしに竹箒であたりを掃き出す斎くんに突っ込む。真面目なのかそうでもないのか、いまいちわからない。子供の頃から斎くんはこんな感じで、年下を集めて怖い話を聞かせていた。面倒見がいいといえばそうなのだろうけれど、どちらかというと、地域の子供会の行事では大人げない斎くんに冷めた目を向けていたような記憶がある。
「ほら、つん。帰るよ」
「うん……」
もちろんまだ日は高いけれど、このままではPTAの集まりが終わったお母さんにも寄り道しているところを見られてしまう。私は寄り道のつもりはないけれど、立ち聞きでも話を聞いてしまったのだから言い訳できない。早く帰ろうと司を促したけれど、急に渋る素振りを見せるので、斎くんも手を止めた。
「どうした、司? 腹でも痛いか?」
「違うよ。ていうか、お腹痛かったらむしろ帰るし」
「それもそうじゃ……て、お前ら姉弟そろってツッコミのキレがいいな」
言い出しにくいことの切り出し方を迷っている風に見える。つい先日まで、実際に司は悩んでいたのだ。友人の彰くんの調子が悪いと。結果的に、彰くんに悪霊が取り憑いていたことが原因と判明し、その悪霊もマガツヒが食べて事なきを得た。彰くんにも特に問題は出なかったはずだけど、何かあったのだろうか。マガツヒが悪霊を招き寄せているせいで身の回りの人々に影響が出ているのなら、今後考えなくてはならない。そもそも私は、あのキーホルダーが可愛かったから買ったのであって、悪霊を呼び起こすために買ったのではない。完全にマガツヒに巻き込まれただけなのだ。それなのに餌だの奴隷だの呼ばれて、理不尽にも程がある。
「相談があるなら聞くけど、その前にちゃんとまかに話してやれよ。お前の姉ちゃんなんじゃけぇ」
「うん……ねえ、斎兄ちゃん」
斎くんは、大人げないけれど面倒見はいいんだよなと思っていると、とうとう司が口を開いた。そういえば、斎くんは一人っ子だ。昔から、私たち姉弟を可愛がってくれていた……とは、親の談だけれど。きっと事実なのだろう。
「斎兄ちゃんは、悪霊って見たことある?」
しかし、予想外の司の言葉に咳きこむ。斎くんが「大丈夫か?」と心配してくれているけれど、それどころではない。
「悪霊ねぇ……それ、寺の息子に訊くか? 幽霊とか妖怪見たことあるかって話なら、よう訊かれるけど……悪霊はさすがにはじめてじゃ」
「じゃあ、見たことない?」
「まあ、ないな」
驚いたような呆れたような。司の問いを扱いあぐねているような反応ではあったけれど、斎くんは真面目な顔をして答えた。
「つん、変なこと言わないの。悪霊なんているわけないでしょ」
まさか、絶賛悪霊と契約していますと言えるはずもなく、司の話を引き留める。案の定、司には信じられないという目で見られたけれど、一般常識というものを考えてほしい。いくら斎くんが寺の息子だからといって、悪霊の存在をはいそうですと肯定できるわけがない。むしろ、宗教の違いで否定する立場かもしれないし。細かいところはわからないけれど、ともかく悪霊の話も、マガツヒの話も、おおやけにするべきではない。以前巻き込まれた藤田さんや彰くんでさえ、悪霊のことは知らないのだ。
司は沈んだ様子で俯いて、斎くんは腕を組んでその様子を見ている。
「いや、俺は悪霊の存在を否定はせんけど。見たことはないゆう話で」
「悪霊がいるの、信じるの?」
「信じるゆうか……なんて言うたらええんじゃろ。でも、目に見えんものがないとは言い切れんよ。俺が悪霊とか見たことないんは、霊感がないけん」
「えっ。斎兄ちゃんて、霊感ないの?」
驚く司のことを、思わず斎くんと同じタイミングで見る。私たちの視線を受けて、斎くんは悩ましい表情で頭をかいた。
「まかも食いつくのかよ……」
「だって、気になるから。お寺の跡取りなのに霊感なくて大丈夫なの?」
「あのなあ、坊主や神主がみんな霊感あるわけないじゃろ」
「そうなの!?」
「そうなの。神主は知らんけど、坊主には修行を積めばなれるし、そのために必要なのは霊感じゃないけん。修行の過程で霊感に目覚めることはあるらしいけどな。そうじゃなかったら坊主の数が足りんじゃろ。それに、普通の人でも霊感がある人もおるし」
「テレビに出てる人たち?」
「あれはインチキもおるじゃろ。誰が偽物か、俺にはわからんけど」
私たちを追い返したかった斎くんは、結局帰る気配のない私たちを見てため息を吐きつつ、司の疑問に答えてくれる。無下にはしないところが、斎くんの面倒見のいいところだと思う。大人げなくても、高校三年生は立派な大人だ。
「斎兄ちゃん、霊感ないのに怖い話は詳しいよね」
「それとこれとは関係ないだろ。ま、俺の話はだいたい檀家さんから仕入れとるやつじゃけえね。俺に霊感がなかろうが関係ないんじゃ」
「もっと実のある話をしなよ」
「辛辣じゃな、まか。昔はもっと可愛かったのに……」
「昔は斎くんの怖い話に泣かされてただけだから」
「じゃけぇ可愛かったんじゃろ」
子供の頃、つまり私が小学生の頃は斎くんの怖い話は苦手だった。先程までと同じように、年下の子たちを集めて聞かせるのだが、声色の変化がうまいのだ。朗読に向いているのではないかと思うけれど、当人曰く怖い話以外に興味がないとのこと。才能を遺憾なく無駄遣いしてくれたおかげで、昔は一時期斎くんと遊ぶのも嫌だったことがある。子供会で一緒になったときに泣いたこともあるらしい。
年下を怖がらせるのが趣味なあたりは、ひょっとするとマガツヒに近しいものがある。だからマガツヒの扱いに慣れた今は、斎くんに返す言葉も迷わないのかもしれない。しかしさすがに、あの性悪自称大悪霊と、お寺の跡取り息子を比べるのは失礼だろうか。
「そんなことより、司は俺に悪霊が見えるか訊いてどうするつもりじゃったん?」
竹箒の上に組んだ手にあごを乗せて、斎くんが司を見る。
「うん……ちょっと前まで、友達の調子が悪くてさ。体調が悪いわけでもないのに、クラブを休むし、誘っても遊びに来ないし、ちょっと変だったんだ」
「ほお。それで?」
「…………」
彰くんの話だとすぐに気付く。斎くんに先を促された司がこちらを振り返ったけれど、何も言えなかった。悪霊なんて滅多な話をするものではない。普通の人は信じない。けれど斎くんは見えなくとも悪霊のような存在がいることを否定しなかったし、昔から私や司、年下の子たちの話を聞いても、こちらが真剣なときにからかったり馬鹿にしたりしなかった。どこまで信頼していいかわからない。けれど、話くらいは聞いてくれるだろう。司に向かって小さく頷くと、司は斎くんに向かって口を開いた。
「……友達、悪霊に取り憑かれてたらしくて。助けたいと思って頑張ったんだけど、気が付いたらおねえが助けてくれてて」
「まかが?」
「い、いやっ、私にもわからないっていうか、私は彰くんと話してただけで……」
「ふーん……。それより、なんで司はその友達が悪霊に取り憑かれてたって言うん? 誰かに聞いたか?」
「あ、えっと、それは、その友達が……」
「友達が、自分は悪霊に取り憑かれてたって言うたんか」
「そ、そうなんだ」
あくまでもマガツヒの話は伏せておくつもりらしい。それには私も賛成だ。あの可愛いげの欠片もない悪霊は説明してもややこしくなるだけだ。今日はキーホルダーすら静かだから、深く眠っているのかもしれない。突然会話に割り込んでこないことを祈りながら話の続きを聞く。
「聞いてる限り、司の友達に取り憑いとった悪霊は、もう離れとるんじゃろ? まだ心配なことがあるん?」
「いや、友達はもう元気だから、心配はいらないんだけど」
「けど?」
「……悪霊って本当にいるのかな」
「その友達はそう言っとったんじゃろ。信じとらんの?」
信じるも何も、悪霊の話をしたのは彰くんではなくマガツヒだ。実際に動いて喋る――人魂のマガツヒを見たのだから司に疑う余地はないはず。しかし思い返せば、彰くんの悪霊をマガツヒが食べるところを司は見ていないし、そうなると人型のマガツヒも見てないことになる。彰くんが元に戻ったからといって、にわかに信じられないのだろう。
「……悪霊って名前かはともかく、この世には目には見えないものや、人や動物のように生きてるわけじゃないものが存在しとるが、滅多に遭遇するものじゃないから普通は知らん。けど司が友達を心配じゃいうんなら、お経くらいは読んでやるけえ」
「お経で悪霊を対峙できるの?」
「さあ? 知らん」
「む、無責任だなあ」
「気休めじゃけえね。そもそも俺、ただの寺の息子で、まだ坊主でもないし、霊感ゼロじゃし」
斎くんが司の頭を撫でた。お経が悪霊に効くなら、ぜひともマガツヒに聞かせてほしいが、腹立たしいことにマガツヒには効果がない気もする。「下手くそな子守歌か?」などと言われるのが想像に容易い。マガツヒの言いそうなことを想像できる自分に涙が出そうだ。
実際、霊感ゼロを自称する斎くんのお経では気休めかもしれない。ただきっと、檀家さんやお寺に頼る人たちにはその気休めが必要なのだろうと思う。
「てかなに? お前らはその悪霊を見たわけ?」
「見てないよ。見てたら信じるもん」
「司、お前って素直だなぁ」
司が彰くんに取り憑いていた悪霊を見ていないのは事実だが、マガツヒは見ているから、悪霊は見ているはずだ。あれほどマガツヒすごいと騒いでいたくらいだし、彰くんの件以降、時折私の部屋に遊びに来てはマガツヒにおやつをあげているから、悪霊かはさておきマガツヒの実在性は疑っていないだろう。嘘も方便というやつだろうか。小学六年生なのに、いつの間にか強かになったものである。姉としては複雑な心境だ。
「まかは?」と話を振られて、慌てて首を横に振る。
「み、見てないよ。司の友達のことは、たまたま見かけて話しかけただけだから……つんから最近元気がない子がいるって聞いてて」
「全員霊感ねえのかよ。この話おしまいじゃん」
「斎兄ちゃん、なんか適当だよ」
「だってそろそろ掃除してーもん。ほら、ガキは帰った帰った」
持ち直した竹箒で私たちを追い払うようにあたりを掃く斎くんに、苦い顔を向ける。たしかに、寄り道はよくないから早く帰るべきなのだけれど、追い返されるとなんとなく釈然としない。しかし斎くんは視線に気付いても涼しい顔で知らんぷりした。
司が制服の裾を引っ張っていることに気付く。
「おねえ、帰ろう」
「……うん」
大量の鳩に囲まれながら掃除する斎くんを後にして、司と一緒にようやくの帰路についた。
家には、まだお母さんは帰っていなかった。司は斎くんとの話をさほど気にしていないのか、すぐにゲームをしようとしたので先に宿題をやるように言いつけ、自分も部屋に入った。静かなうちに宿題を済ませようかと机にノートを並べていると、いつの間にかノートの上に紫色の人魂姿のマガツヒがいて思わず大きな声を出す。
「うわぁ!」
「喧しいな。その労力をもっと別の有意義なことに使え。例えば俺様に献上するための悪霊探しとかだな」
「ぜ、絶対そんなことしないし! ていうか急に出てこないでよ、ほんとにびっくりするんだから」
「勝手に驚いているのは貴様だろうが」
机の上をぽよぽよと転がるマガツヒ。見た目だけなら、本当に何かのマスコットキャラクターのようで可愛らしいのに、口を開けばこんなに残念なのだから、気休めのお経も頼みたくなるというもの。
「それより下僕」
「下僕じゃないってば」
「あの人間はなんだ?」
「聞いてないし……。あの人間って、斎くんのこと?」
「それだ」
せめて机の隅に寄ってほしいのだが、マガツヒは私の手の上に乗っかって、小さな手でたしたしと叩いてくる。
先程まで話していた、マガツヒの知らない相手となると斎くんしかいない。今までも私が話していた相手が気になると、こうしてひとりになったときに声をかけてくる。そして過去にそうして話しかけてきたときに、いい話だった例しはない。
「ひょっとして、斎くんにも悪霊の気配が~とか言い出すんじゃないでしょうね」
「逆だ、間抜け」
むっとするが、マガツヒの言葉に腹を立てても仕方がないのだと思い直す。いつものこと、いつものことだ。
「あの人間、霊感がないというのは嘘だ」
「え? 斎くんが嘘吐いてたって言うの? なんでマガツヒにそんなことがわかるのよ」
「あの男、並の人間より霊力が高すぎるせいで、下級霊が近寄れないだけだ。最初に貴様を餌にして食った悪霊程度なら、近付けずに消滅するぞ。さしずめ歩く掃除屋といったところか。そのせいで、あの人間が霊を視認できず、霊感がないなどと思い込んでいるだけだ」
「……そうなの?」
「ああ。あれくらいの人間が経を読めば、低級悪霊は続々とお陀仏だな。坊主だけに。そうなってはもったいない。小魚だろうと飯には違いないのだ、あいつに邪魔されると面倒で敵わん。絶対に近付くなよ」
日頃さんざん私や人間を馬鹿にしているマガツヒだが、決して嘘は言わない。本心で見下しているから、良くも悪くもその言葉は真実だ。普段は悪い言葉しか出てこないけれど、斎くんに関してだけは本気で認めているようで、本当にマガツヒの言葉なのか疑ってしまう。
「……じゃあ、斎くんならマガツヒも追い払えるってこと?」
「戯け。小物程度ならという話だ。大悪霊である俺が祓われるものか」
斎くんに近付くなという話をしたかっただけらしく、不機嫌そうに鼻を鳴らして人魂のマガツヒは姿を消した。どこまで信じていいかわからないけれど、とにかくマガツヒが釘を刺す程度には斎くんを疎ましく思っているのは事実だろう。いざというときは斎くんのところへ駆け込もうと決めて、宿題のためにノートを開いた。